銀河鉄道ぎんがてつどうよる
             宮澤賢治


       一、午后ごご授業じゆぎよう

1
「ではみなさんは、そういうふうに川だとわれたり、ちちの流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知しようちですか。」先生は、黒板こくばんつるした大きな黒い星座せいざの図の、上から下へ白くけぶった銀河ぎんがたいのようなところをしながら、みんなに問をかけました。

2
カムパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌ざつしで読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。

3
ところが先生は早くもそれを見附みつけたのでした。
「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう。」

4
ジョバンニはいきおいよく立ちあがりましたが、立って見るともうはっきりとそれを答えることができないのでした。ザネリが前の席からふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました。ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。先生がまたいました。
「大きな望遠鏡ぼうえんきようで銀河をよっく調しらべると銀河は大体だいたい何でしょう。」

5
やっぱり星だとジョバンニは思いましたがこんどもすぐに答えることができませんでした。

6
先生はしばらくこまったようすでしたが、をカムパネルラの方へ向けて、
「ではカムパネルラさん。」と名指なざしました。するとあんなに元気に手をあげたカムパネルラが、やはりもじもじ立ち上ったままやはり答えができませんでした。

7
先生は意外いがいなようにしばらくじっとカムパネルラを見ていましたが、急いで「では。よし。」と云いながら、自分で星図せいずを指しました。
「このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんそうでしょう。」

8
ジョバンニはまっ赤になってうなずきました。けれどもいつかジョバンニののなかにはなみだがいっぱいになりました。そうだぼくは知っていたのだ、勿論もちろんカムパネルラも知っている、それはいつかカムパネルラのお父さんの博士はかせのうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑誌のなかにあったのだ。それどこでなくカムパネルラは、その雑誌を読むと、すぐお父さんの書斎しよさいからおおきな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、まっ黒なページいっぱいに白い点々のある美しい写真を二人でいつまでも見たのでした。それをカムパネルラが忘れるはずもなかったのに、すぐに返事へんじをしなかったのは、このごろぼくが、朝にも午后ごごにも仕事がつらく、学校に出てももうみんなともはきはき遊ばず、カムパネルラともあんまり物を云わないようになったので、カムパネルラがそれを知って気のどくがってわざと返事をしなかったのだ、そう考えるとたまらないほど、じぶんもカムパネルラもあわれなような気がするのでした。

9
先生はまたいました。
「ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこのすな砂利じやりつぶにもあたるわけです。またこれをおおきなちちの流れと考えるならもっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるでこまかにうかんでいる脂油あぶらたまにもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと云いますと、それは真空しんくうという光をある速さで伝えるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかにうかんでいるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかにんでいるわけです。そしてその天の川の水のなかから四方を見ると、ちょうど水がふかいほど青く見えるように、天の川の底の深く遠いところほど星がたくさんあつまって見えしたがって白くぼんやり見えるのです。この模型もけいをごらんなさい。」

10
先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面りようめんとつレンズをしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶがみんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズがうすいのでわずかの光るつぶすなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスがあついので、光る粒即ち星がたくさん見えその遠いのはぼうっと白く見えるというこれがつまり今日こんにち銀河ぎんがせつなのです。そんならこのレンズの大きさがどれぐらいあるかまたその中のさまざまの星についてはもう時間ですからこの次の理科の時間にお話します。では今日はその銀河のおまつりなのですからみなさんは外へでてよくそらをごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。」

11
そして教室中はしばらくつくえふたをあけたりしめたり本を重ねたりする音がいっぱいでしたがまもなくみんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。


        二、活版所かつぱんじよ

12
ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭のすみさくらの木のところに集まっていました。それはこんやの星祭ほしまつりに青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜からすうりを取りに行く相談そうだんらしかったのです。

13
けれどもジョバンニは手を大きくってどしどし学校の門を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀河の祭りにいちいの葉の玉をつるしたりひのきの枝にあかりをつけたりいろいろ仕度したくをしているのでした。

14
家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処かつぱんじよにはいってすぐ入口の計算台にただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニはくつをぬいで上りますと、あたりの大きなをあけました。中にはまだ昼なのに電燈でんとうがついてたくさんの輪転器りんてんきがばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりランプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いてりました。

15
ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子テーブルすわった人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらくたなをさがしてから、
「これだけひろって行けるかね。」といながら、一枚の紙切れをわたしました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さなひらたいはこをとりだして向うの電燈でんとうのたくさんついた、たてかけてあるかべすみの所へしゃがみむと小さなピンセットでまるで粟粒あわつぶぐらいの活字かつじを次から次とひろいはじめました。青いむねあてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、
「よう、虫めがね君、お早う。」といますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちもかずにつめたくわらいました。

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ジョバンニは何べんもぬぐいながら活字をだんだんひろいました。

17
六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニはひろった活字をいっぱいに入れた平たいはこをもういちど手にもった紙きれと引き合せてから、さっきの卓子の人へ持って来ました。その人はだまってそれを受け取ってかすかにうなずきました。

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ジョバンニはおじぎをするとをあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服しろふくを着た人がやっぱりだまって小さな銀貨ぎんかを一つジョバンニにわたしました。ジョバンニはにわかに顔いろがよくなって威勢いせいよくおじぎをすると台の下に置いたかばんをもっておもてへ飛びだしました。それから元気よく口笛くちぶえを吹きながらパン屋へってパンのかたまりを一つと角砂糖かくざとう一袋ひとふくろ買いますと一目散いちもくさんに走りだしました。

        三、家

19
ジョバンニがいきおいよく帰って来たのは、ある裏町うらまちの小さな家でした。その三つならんだ入口の一番左側には空箱あきばこむらさきいろのケールやアスパラガスがえてあって小さな二つの窓には日覆ひおおいがりたままになっていました。
「お母さん。いま帰ったよ。工合ぐあい悪くなかったの。」ジョバンニはくつをぬぎながら云いました。
「ああ、ジョバンニ、お仕事がひどかったろう。今日はすずしくてね。わたしはずうっと工合がいいよ。」

20
ジョバンニは玄関げんかんを上って行きますとジョバンニのお母さんがすぐ入口のへやに白いきれかぶってやすんでいたのでした。ジョバンニは窓をあけました。
「お母さん。今日は角砂糖を買ってきたよ。牛乳に入れてあげようと思って。」
「ああ、お前さきにおあがり。あたしはまだほしくないんだから。」
「お母さん。姉さんはいつ帰ったの。」
「ああ三時ころ帰ったよ。みんなそこらをしてくれてね。」
「お母さんの牛乳は来ていないんだろうか。」
「来なかったろうかねえ。」
「ぼく行ってとって来よう。」
「あああたしはゆっくりでいいんだからお前さきにおあがり、姉さんがね、トマトで何かこしらえてそこへ置いて行ったよ。」
「ではぼくたべよう。」

21
ジョバンニは窓のところからトマトの皿をとってパンといっしょにしばらくむしゃむしゃたべました。
「ねえお母さん。ぼくお父さんはきっと間もなく帰ってくると思うよ。」
「あああたしもそう思う。けれどもおまえはどうしてそう思うの。」
「だって今朝けさの新聞に今年は北の方のりようは大へんよかったと書いてあったよ。」
「ああだけどねえ、お父さんは漁へ出ていないかもしれない。」
「きっと出ているよ。お父さんが監獄かんごくへ入るようなそんな悪いことをしたはずがないんだ。この前お父さんが持ってきて学校へ寄贈きぞうしたおおきなかにこうらだのとなかいのつのだの今だってみんな標本室ひようほんしつにあるんだ。六年生なんか授業のとき先生がかわるがわる教室へ持って行くよ。一昨年おととし修学旅行しゆうがくりよこうで〔以下数文字分空白〕
「お父さんはこの次はおまえにラッコの上着うわぎをもってくるといったねえ。」
「みんながぼくにあうとそれを云うよ。ひやかすように云うんだ。」
「おまえに悪口わるぐちを云うの。」
「うん、けれどもカムパネルラなんか決して云わない。カムパネルラはみんながそんなことを云うときは気のどくそうにしているよ。」
「あの人はうちのお父さんとはちょうどおまえたちのように小さいときからのお友達だったそうだよ。」
「ああだからお父さんはぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。あのころはよかったなあ。ぼくは学校から帰る途中とちゆうたびたびカムパネルラのうちにった。カムパネルラのうちにはアルコールランプで走る汽車があったんだ。レールを七つ組み合せると円くなってそれに電柱でんちゆう信号標しんごうひようもついていて信号標のあかりは汽車が通るときだけ青くなるようになっていたんだ。いつかアルコールがなくなったとき石油せきゆをつかったら、かんがすっかりすすけたよ。」
「そうかねえ。」
「いまも毎朝新聞をまわしに行くよ。けれどもいつでも家中まだしぃんとしているからな。」
「早いからねえ。」
「ザウエルという犬がいるよ。しっぽがまるでほうきのようだ。ぼくが行くとはなを鳴らしてついてくるよ。ずうっと町の角までついてくる。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏瓜からすうりのあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ。」
「そうだ。今晩こんばんは銀河のお祭だねえ。」
「うん。ぼく牛乳をとりながら見てくるよ。」
「ああ行っておいで。川へははいらないでね。」
「ああぼく岸から見るだけなんだ。一時間で行ってくるよ。」
「もっと遊んでおいで。カムパネルラさんと一諸いつしよなら心配はないから。」
「ああきっと一諸だよ。お母さん、窓をしめてこうか。」
「ああ、どうか。もうすずしいからね」

22
ジョバンニは立って窓をしめお皿やパンのふくろ片附かたずけるといきおいよくくつをはいて
「では一時間半で帰ってくるよ。」と云いながら暗い戸口を出ました。

        四、ケンタウルまつりよる

23
ジョバンニは、口笛くちぶえを吹いているようなさびしい口付くちつきで、ひのきのまっ黒にならんだ町の坂を下りて来たのでした。

24
坂の下に大きな一つの街燈がいとうが、青白く立派に光って立っていました。ジョバンニが、どんどん電燈でんとうの方へ下りて行きますと、いままでばけもののように、長くぼんやり、うしろへ引いていたジョバンニのかげぼうしは、だんだんく黒くはっきりなって、足をあげたり手を振ったり、ジョバンニの横の方へまわって来るのでした。
(ぼくは立派な機関車きかんしやだ。ここは勾配こうばいだから速いぞ。ぼくはいまその電燈を通りす。そうら、こんどはぼくの影法師かげぼうしはコンパスだ。あんなにくるっとまわって、前の方へ来た。)

25
とジョバンニが思いながら、大股おおまたにその街燈がいとうの下を通り過ぎたとき、いきなりひるまのザネリが、新らしいえりのとがったシャツを着て電燈の向う側の暗い小路こうじから出て来て、ひらっとジョバンニとすれちがいました。
「ザネリ、烏瓜からすうりながしに行くの。」ジョバンニがまだそうってしまわないうちに、
「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着うわぎが来るよ。」その子がげつけるようにうしろからさけびました。

26
ジョバンニは、ばっとむねがつめたくなり、そこら中きぃんとるように思いました。
「何だい。ザネリ。」とジョバンニは高くさけび返しましたがもうザネリは向うのひばのうわった家の中へはいっていました。
「ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのだろう。走るときはまるでねずみのようなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのはザネリがばかなからだ。」

27
ジョバンニは、せわしくいろいろのことを考えながら、さまざまのあかりや木のえだで、すっかりきれいにかざられたまちを通って行きました。時計屋とけいやの店には明るくネオンとうがついて、一秒いちびようごとに石でこさえたふくろうの赤い眼が、くるっくるっとうごいたり、いろいろな宝石ほうせきが海のような色をしたあつ硝子ガラスばんって星のようにゆっくりめぐったり、また向う側から、どう人馬じんばがゆっくりこっちへまわって来たりするのでした。そのまん中に円い黒い星座早見せいざはやみが青いアスパラガスの葉でかざってありました。

28
ジョバンニはわれを忘れて、その星座の図に見入みいりました。

29
それはひる学校で見たあの図よりはずうっと小さかったのですがその日と時間に合せてばんをまわすと、そのとき出ているそらがそのまま楕円形だえんけいのなかにめぐってあらわれるようになってりやはりそのまん中には上から下へかけて銀河がぼうとけむったようなおびになってその下の方ではかすかに爆発ばくはつして湯気ゆげでもあげているように見えるのでした。またそのうしろには三本のあしのついた小さな望遠鏡ぼうえんきようが黄いろに光って立っていましたしいちばんうしろのかべには空じゅうの星座をふしぎなけものへびや魚やびんの形に書いた大きな図がかかっていました。ほんとうにこんなようなさそりだの勇士ゆうしだのそらにぎっしり居るだろうか、ああぼくはその中をどこまでも歩いて見たいと思ってたりしてしばらくぼんやり立って居ました。

30
それからにわかにお母さんの牛乳のことを思いだしてジョバンニはその店をはなれました。そしてきゅうくつな上着のかたを気にしながらそれでもわざとむねを張って大きく手をって町を通って行きました。

31
空気はみきって、まるで水のように通りや店の中を流れましたし、街燈がいとうはみなまっ青なもみやならの枝で包まれ、電気会社でんきがいしやの前の六本のプラタヌスの木などは、中に沢山たくさんの豆電燈でんとうがついて、ほんとうにそこらは人魚にんぎよみやこのように見えるのでした。子どもらは、みんな新らしいおりのついた着物きものを着て、星めぐりの口笛くちぶえを吹いたり、
「ケンタウルス、つゆをふらせ。」と叫んで走ったり、青いマグネシヤの花火をしたりして、たのしそうに遊んでいるのでした。けれどもジョバンニは、いつかまた深く首をれて、そこらのにぎやかさとはまるでちがったことを考えながら、牛乳屋の方へ急ぐのでした。

32
ジョバンニは、いつか町はずれのポプラの木が幾本いくほんも幾本も、高く星ぞらにうかんでいるところに来ていました。その牛乳屋の黒い門を入り、牛のにおいのするうすくらい台所の前に立って、ジョバンニは帽子ぼうしをぬいで「今晩こんばんは、」といましたら、家の中はしぃんとしてたれたようではありませんでした。
「今晩は、ごめんなさい。」ジョバンニはまっすぐに立ってまた叫びました。するとしばらくたってから、年老としとった女の人が、どこか工合ぐあいが悪いようにそろそろと出て来て何か用かと口の中で云いました。
「あの、今日、牛乳が僕んとこへ来なかったので、もらいにあがったんです。」ジョバンニが一生いつしようけんめいいきおいよく云いました。
「いま誰もいないでわかりません。あしたにして下さい。」

33
その人は、赤いの下のとこをこすりながら、ジョバンニを見おろして云いました。
「おっかさんが病気なんですから今晩こんばんでないと困るんです。」
「ではもう少したってから来てください。」その人はもう行ってしまいそうでした。
「そうですか。ではありがとう。」ジョバンニは、お辞儀じぎをして台所から出ました。

34
十字になった町のかどを、まがろうとしましたら、向うの橋へ行く方の雑貨店ざつかてんの前で、黒いかげやぼんやり白いシャツが入りみだれて、六七人の生徒せいとらが、口笛を吹いたり笑ったりして、めいめい烏瓜からすうり燈火あかりを持ってやって来るのを見ました。その笑い声も口笛も、みんな聞きおぼえのあるものでした。ジョバンニの同級どうきゆうの子供らだったのです。ジョバンニは思わずどきっとして戻ろうとしましたが、思い直して、一そう勢よくそっちへ歩いて行きました。
「川へ行くの。」ジョバンニが云おうとして、少しのどがつまったように思ったとき、
「ジョバンニ、らっこの上着うわぎが来るよ。」さっきのザネリがまた叫びました。
「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」すぐみんなが、続いて叫びました。ジョバンニはまっ赤になって、もう歩いているかもわからず、急いで行きすぎようとしましたら、そのなかにカムパネルラがたのです。カムパネルラは気のどくそうに、だまって少しわらって、おこらないだろうかというようにジョバンニの方を見ていました。

35
ジョバンニは、げるようにそのけ、そしてカムパネルラのせいの高いかたちがぎて行って間もなく、みんなはてんでに口笛を吹きました。町かどを曲るとき、ふりかえって見ましたら、ザネリがやはりふりかえって見ていました。そしてカムパネルラもまた、高く口笛を吹いて向うにぼんやり橋の方へ歩いて行ってしまったのでした。ジョバンニは、なんとも云えずさびしくなって、いきなり走り出しました。すると耳に手をあてて、わああと云いながら片足でぴょんぴょんんでいた小さな子供らは、ジョバンニが面白おもしろくてかけるのだと思ってわあいと叫びました。まもなくジョバンニは黒い丘の方へ急ぎました。

        五、天気輪てんきりんはしら

36
牧場ぼくじようのうしろはゆるい丘になって、その黒いたいららな頂上ちようじようは、北の大熊星おおぐまぼしの下に、ぼんやりふだんよりも低くつらなって見えました。

37
ジョバンニは、もうつゆりかかった小さな林のこみちを、どんどんのぼって行きました。まっくらな草や、いろいろな形に見えるやぶのしげみの間を、その小さなみちが、一すじ白く星あかりにらしだされてあったのです。草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もいて、ある葉は青くすかし出され、ジョバンニは、さっきみんなの持って行った烏瓜からすうりのあかりのようだとも思いました。

38
そのまっ黒な、松やならの林を越えると、にわかにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へわたっているのが見え、またいただきの、天気輪てんきりんの柱も見わけられたのでした。つりがねそうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、夢の中からでもかおりだしたというようにき、鳥が一ぴき、丘の上を鳴き続けながら通って行きました。

39
ジョバンニは、いただき天気輪てんきりんはしらの下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。

40
町のあかりは、やみの中をまるで海の底のおみやのけしきのようにともり、子供らの歌う声や口笛、きれぎれの叫び声もかすかに聞えて来るのでした。風が遠くで鳴り、丘の草もしずかにそよぎ、ジョバンニのあせでぬれたシャツもつめたく冷されました。ジョバンニは町のはずれから遠く黒くひろがった野原を見わたしました。

41
そこから汽車の音が聞えてきました。その小さな列車れつしやの窓は一列いちれつ小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人たびびとが、苹果りんごいたり、わらったり、いろいろなふうにしていると考えますと、ジョバンニは、もう何ともえずかなしくなって、また眼をそらにげました。

42
あああの白いそらのおびがみんな星だというぞ。

43
ところがいくら見ていても、そのそらはひる先生の云ったような、がらんとした冷いとこだとは思われませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のように考えられて仕方なかったのです。そしてジョバンニは青いことの星が、三つにも四つにもなって、ちらちらまたたきき、あしが何べんも出たり引っ込んだりして、とうとうきのこのように長くびるのを見ました。またすぐ眼の下のまちまでがやっぱりぼんやりしたたくさんの星のあつまりか一つの大きなけむりかのように見えるように思いました。


        六、銀河ぎんがステーション

44
そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪てんきりんはしらがいつかぼんやりした三角標さんかくひようの形になって、しばらくほたるのように、ぺかぺか消えたりともったりしているのを見ました。それはだんだんはっきりして、とうとうりんとうごかないようになり、鋼青こうせいのそらの野原にたちました。いま新らしくいたばかりの青いはがねの板のような、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。

45
するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ぎんがステーション、銀河ステーションと云う声がしたと思うといきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万おくまんほたる烏賊いかの火を一ぺんに化石かせきさせて、そら中に沈めたという工合ぐあい、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざとれないふりをして、かくして置いた金剛石こんごうせきを、誰かがいきなりひっくりかえして、ばらいたというふうに、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼をこすってしまいました。

46
気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした。ほんとうにジョバンニは、夜の軽便鉄道けいべんてつどうの、小さな黄いろの電燈のならんだ車室しやしつに、窓から外を見ながらすわっていたのです。車室の中は、青い天蚕絨ビロードった腰掛こしかけが、まるでがら明きで、向うのねずみいろのワニスをったかべには、真鍮しんちゆうの大きなぼたんが二つ光っているのでした。

47
すぐ前の席に、ぬれたようにまっ黒な上着を着た、せいの高い子供が、窓から頭を出して外を見ているのに気が付きました。そしてそのこどもの肩のあたりが、どうも見たことのあるような気がして、そう思うと、もうどうしても誰だかわかりたくて、たまらなくなりました。いきなりこっちも窓から顔を出そうとしたとき、にわかにその子供が頭を引っ込めて、こっちを見ました。

48
それはカムパネルラだったのです。

49
ジョバンニが、カムパネルラ、きみは前からここに居たのと云おうと思ったとき、カムパネルラが
「みんなはねずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった。」と云いました。

50
ジョバンニは、(そうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛でかけたのだ。)とおもいながら、
「どこかで待っていようか」と云いました。するとカムパネルラは
「ザネリはもう帰ったよ。お父さんがむかいにきたんだ。」

51
カムパネルラは、なぜかそう云いながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦しいというふうでした。するとジョバンニも、なんだかどこかに、何か忘れたものがあるというような、おかしな気持ちがしてだまってしまいました。

52
ところがカムパネルラは、窓から外をのぞきながら、もうすっかり元気が直って、いきおいよく云いました。
「ああしまった。ぼく、水筒すいとうを忘れてきた。スケッチちようも忘れてきた。けれどかまわない。もうじき白鳥の停車場ていしやばだから。ぼく、白鳥を見るなら、ほんとうにすきだ。川の遠くを飛んでいたって、ぼくはきっと見える。」そして、カムパネルラは、円い板のようになった地図を、しきりにぐるぐるまわして見ていました。まったくその中に、白くあらわされた天の川の左の岸に沿って一条いちじよう鉄道線路てつどうせんろが、南へ南へとたどって行くのでした。そしてその地図の立派りつぱなことは、夜のようにまっ黒なばんの上に、一一の停車場や三角標さんかくひよう泉水せんすいや森が、青やだいだいや緑や、うつくしい光でちりばめられてありました。ジョバンニはなんだかその地図をどこかで見たようにおもいました。
「この地図はどこで買ったの。黒曜石こくようせきでできてるねえ。」

53
ジョバンニが云いました。
銀河ぎんがステーションで、もらったんだ。君もらわなかったの。」
「ああ、ぼく銀河ステーションを通ったろうか。いまぼくたちの居るとこ、ここだろう。」

54
ジョバンニは、白鳥と書いてある停車場のしるしの、すぐ北を指しました。
「そうだ。おや、あの河原かわらは月夜だろうか。」

55
そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、なみを立てているのでした。
「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云いながら、まるではね上りたいくらい愉快ゆかいになって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛を吹きながら一生けん命びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素すいそよりもすきとおって、ときどき加減かげんか、ちらちらむらさきいろのこまかな波をたてたり、虹のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光りんこうの三角標が、うつくしく立っていたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものはだいだいや黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、あるいいは三角形、或いは四辺形しへんけい、あるいはいなずまや鎖の形、さまざまにならんで、野原いっぱい光っているのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけにりました。するとほんとうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかがやく三角標も、てんでに息をつくように、ちらちらゆれたりふるえたりしました。
「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。」ジョバンニは云いました。
「それにこの汽車石炭をたいていないねえ。」ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云いました。
「アルコールか電気だろう。」カムパネルラが云いました。

56
ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがえる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光びこうの中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。
「ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ。」カムパネルラが、窓の外を指さして云いました。

57
線路せんろのへりになったみじかい芝草しばくさの中に、月長石げつちようせきででもきざまれたような、すばらしいむらさきのりんどうの花が咲いていました。
「ぼく、飛び下りて、あいつをとって、また飛び乗ってみせようか。」ジョバンニはむねおどらせて云いました。
「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから。」

58
カムパネルラが、そう云ってしまうかしまわないうち、次のりんどうの花が、いっぱいに光って過ぎて行きました。

59
と思ったら、もう次から次から、たくさんのきいろな底をもったりんどうの花のコップが、くように、雨のように、眼の前を通り、三角標のれつは、けむるようにえるように、いよいよ光って立ったのです。


        七、北十字きたじゆうじとプリオシン海岸かいがん


「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」

60
いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、きこんで云いました。

61
ジョバンニは、
(ああ、そうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見えるだいだいいろの三角標さんかくひようのあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考えているんだった。)と思いながら、ぼんやりしてだまっていました。
「ぼくはおっかさんが、ほんとうにさいわいになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニはびっくりしてさけびました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」カムパネルラは、なにかほんとうに決心けつしんしているように見えました。

62
にわかに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。見ると、もうじつに、金剛石こんごうせきや草のつゆやあらゆる立派りつぱさをあつめたような、きらびやかな銀河の河床かわどこの上を水は声もなくかたちもなく流れ、その流れのまん中に、ぼうっと青白く後光ごこうした一つの島が見えるのでした。その島の平らないただきに、立派りつぱもさめるような、白い十字架じゆうじかがたって、それはもうこおった北極ほつきよくの雲でたといったらいいか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永久えいきゆうに立っているのでした。
「ハルレヤ、ハルレヤ。」前からもうしろからも声が起りました。ふりかえって見ると、車室しやしつの中の旅人たびびとたちは、みなまっすぐにきもののひだをれ、黒いバイブルをむねにあてたり、水晶すいしよう珠数じゆずをかけたり、どの人もつつましく指を組み合せて、そっちにいのっているのでした。思わず二人もまっすぐに立ちあがりました。カムパネルラのほおは、まるでじゆくした苹果りんごのあかしのようにうつくしくかがやいて見えました。

63
そして島と十字架じゆうじかとは、だんだんうしろの方へうつって行きました。

64
むこう岸も、青じろくぽうっと光ってけむり、時々、やっぱりすすきが風にひるがえるらしく、さっとその銀いろがけむって、息でもかけたように見え、また、たくさんのりんどうの花が、草をかくれたり出たりするのは、やさしい狐火きつねびのように思われました。

65
それもほんのちょっとの間、川と汽車との間は、すすきの列でさえぎられ、白鳥の島は、二度ばかり、うしろの方に見えましたが、じきもうずうっと遠く小さく、絵のようになってしまい、またすすきがざわざわ鳴って、とうとうすっかり見えなくなってしまいました。ジョバンニのうしろには、いつからっていたのか、せいの高い、黒いかつぎをしたカトリック風のあまさんが、まんまるみどりひとみを、じっとまっすぐに落して、まだ何かことばか声かが、そっちから伝わって来るのを、つつしんで聞いているというように見えました。旅人たちはしずかに席にもどり、二人もむねいっぱいのかなしみにた新らしい気持ちを、何気なにげなくちがったことばで、そっとはなし合ったのです。
「もうじき白鳥の停車場ていしやばだねえ。」
「ああ、十一時かっきりには着くんだよ。」

66
早くも、シグナルの緑のだいだいと、ぼんやり白いはしらとが、ちらっと窓のそとを過ぎ、それから硫黄いおうのほのおのようなくらいぼんやりしたてんてつの前のあかりが窓の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、間もなくプラットホームの一れつ電燈でんとうが、うつくしく規則きそく正しくあらわれ、それがだんだん大きくなってひろがって、二人は丁度ちようど白鳥はくちよう停車場の、大きな時計の前に来てとまりました。

67
さわやかな秋の時計の盤面ばんめんには、青くかれたはがねの二本のはりが、くっきり十一時を指しました。みんなは、一ぺんに下りて、車室の中はがらんとなってしまいました。
〔二十分停車〕と時計の下に書いてありました。
「ぼくたちも降りて見ようか。」ジョバンニが云いました。
「降りよう。」二人は一度にはねあがってドアを飛び出して改札口かいさつぐちへかけて行きました。ところが改札口には、明るいむらさきがかった電燈が、一ついているばかり、たれませんでした。そこら中を見ても、駅長えきちよう赤帽あかぼうらしい人の、影もなかったのです。

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二人は、停車場の前の、水晶すいしよう細工ざいくのように見える銀杏いちようの木にかこまれた、小さな広場に出ました。そこからはばの広いみちが、まっすぐに銀河の青光の中へ通っていました。

69
さきに降りた人たちは、もうどこへ行ったか一人も見えませんでした。二人がその白い道を、肩をならべて行きますと、二人のかげは、ちょうど四方に窓のある室の中の、二本のはしらの影のように、また二つの車輪しやしんの輻のように幾本いくほんも幾本も四方へ出るのでした。そして間もなく、あの汽車から見えたきれいな河原かわらに来ました。

70
カムパネルラは、そのきれいな砂を一つまみ、てのひらにひろげ、指できしきしさせながら、夢のように云っているのでした。
「この砂はみんな水晶すいしようだ。中で小さな火がえている。」
「そうだ。」どこでぼくは、そんなことならったろうと思いながら、ジョバンニもぼんやり答えていました。

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河原かわらこいしは、みんなすきとおって、たしかに水晶や黄玉こうぎよくや、またくしゃくしゃの皺曲しゆうきよくをあらわしたのや、またかどからきりのような青白い光を出す鋼玉こうぎよくやらでした。ジョバンニは、走ってそのなぎさに行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素すいそよりももっとすきとおっていたのです。それでもたしかに流れていたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろにいたように見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光りんこうをあげて、ちらちらとえるように見えたのでもわかりました。

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川上の方を見ると、すすきのいっぱいに生えているがけの下に、白い岩が、まるで運動場のように平らに川に沿って出ているのでした。そこに小さな五六人の人かげが、何かり出すかめるかしているらしく、立ったりかがんだり、時々なにかの道具が、ピカッと光ったりしました。
「行ってみよう。」二人は、まるで一度にさけんで、そっちの方へ走りました。その白い岩になったところの入口に、
〔プリオシン海岸かいがん〕という、瀬戸物せともののつるつるした標札ひようさつが立って、向うのなぎさには、ところどころ、細い鉄の欄干らんかんえられ、木製もくせいのきれいなベンチも置いてありました。
「おや、変なものがあるよ。」カムパネルラが、不思議ふしぎそうに立ちどまって、岩から黒い細長いさきのとがったくるみの実のようなものをひろいました。
「くるみの実だよ。そら、沢山たくさんある。流れて来たんじゃない。岩の中に入ってるんだ。」
「大きいね、このくるみ、ばいあるね。こいつはすこしもいたんでない。」
「早くあすこへ行って見よう。きっと何かってるから。」

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二人は、ぎざぎざの黒いくるみの実を持ちながら、またさっきの方へ近よって行きました。左手のなぎさには、波がやさしい稲妻いなずまのようにえてせ、右手のがけには、いちめん銀や貝殻かいがらでこさえたようなすすきのがゆれたのです。

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だんだん近付ちかづいて見ると、一人のせいの高い、ひどい近眼鏡きんがんきようをかけ、長靴ながぐつをはいた学者がくしやらしい人が、手帳てちように何かせわしそうに書きつけながら、鶴嘴つるはしをふりあげたり、スコープをつかったりしている、三人の助手じよしゆらしい人たちに夢中むちゆうでいろいろ指図さしずをしていました。
「そこのその突起とつきこわさないように。スコープを使いたまえ、スコープを。おっと、も少し遠くからって。いけない、いけない。なぜそんな乱暴らんぼうをするんだ。」

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見ると、その白いやわらかな岩の中から、大きな大きな青じろいけものほねが、横にたおれてつぶれたという風になって、半分以上り出されていました。そして気をつけて見ると、そこらには、ひづめの二つある足跡あしあとのついた岩が、四角に十ばかり、きれいに切り取られて番号ばんごうがつけられてありました。
「君たちは参観さんかんかね。」その大学士だいがくしらしい人が、眼鏡めがねをきらっとさせて、こっちを見て話しかけました。「くるみが沢山たくさんあったろう。それはまあ、ざっと百二十万年ぐらい前のくるみだよ。ごく新らしい方さ。ここは百二十万年前、第三紀だいさんきのあとのころは海岸でね、この下からは貝がらも出る。いま川の流れているとこに、そっくり塩水がせたり引いたりもしていたのだ。このけものかね、これはボスといってね、おいおい、そこつるはしはよしたまえ。ていねいにのみでやってくれたまえ。ボスといってね、いまの牛の先祖せんぞで、昔はたくさんたさ。」
標本ひようほんにするんですか。」
「いや、証明しようめいするにるんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派りつぱ地層ちそうで、百二十万年ぐらい前にできたという証拠しようこもいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかということなのだ。わかったかい。けれども、おいおい。そこもスコープではいけない。そのすぐ下に肋骨ろつこつもれてるはずじゃないか。」大学士はあわてて走って行きました。
「もう時間だよ。行こう。」カムパネルラが地図と腕時計うでどけいとをくらべながら云いました。
「ああ、ではわたくしどもは失礼いたします。」ジョバンニは、ていねいに大学士におじぎしました。
「そうですか。いや、さよなら。」大学士は、またいそがしそうに、あちこち歩きまわって監督かんとくをはじめました。二人は、その白い岩の上を、一生けんめい汽車におくれないように走りました。そしてほんとうに、風のように走れたのです。息も切れずひざもあつくなりませんでした。

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こんなにしてかけるなら、もう世界中だってかけれると、ジョバンニは思いました。

77
そして二人は、前のあの河原かわらを通り、改札口かいさつぐち電燈でんとうがだんだん大きくなって、間もなく二人は、もとの車室のせきすわって、いま行って来た方を、まどから見ていました。


        八、とりひと


「ここへかけてもようございますか。」

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がさがさした、けれども親切しんせつそうな、大人おとなの声が、二人のうしろで聞えました。

79
それは、茶いろの少しぼろぼろの外套がいとうを着て、白いきれでつつんだ荷物にもつを、二つに分けて肩にけた、赤髯あかひげのせなかのかがんだ人でした。
「ええ、いいんです。」ジョバンニは、少し肩をすぼめて挨拶あいさつしました。その人は、ひげの中でかすかに微笑わらいながら、荷物をゆっくり網棚あみだなにのせました。ジョバンニは、なにか大へんさびしいようなかなしいような気がして、だまって正面しようめんの時計を見ていましたら、ずうっと前の方で、硝子ガラスの笛のようなものが鳴りました。汽車はもう、しずかにうごいていたのです。カムパネルラは、車室の天井てんじようを、あちこち見ていました。その一つのあかりに黒い甲虫かぶとむしがとまってそのかげが大きく天井にうつっていたのです。赤ひげの人は、なにかなつかしそうにわらいながら、ジョバンニやカムパネルラのようすを見ていました。汽車はもうだんだん早くなって、すすきと川と、かわるがわる窓の外から光りました。

80
赤ひげの人が、少しおずおずしながら、二人にきました。
「あなた方は、どちらへ入らっしゃるんですか。」
「どこまでも行くんです。」ジョバンニは、少しきまり悪そうに答えました。
「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ。」
「あなたはどこへ行くんです。」カムパネルラが、いきなり、喧嘩けんかのようにたずねましたので、ジョバンニは、思わずわらいました。すると、向うの席にた、とがった帽子ぼうしをかぶり、大きなかぎこしに下げた人も、ちらっとこっちを見てわらいましたので、カムパネルラも、つい顔を赤くして笑いだしてしまいました。ところがその人は別におこったでもなく、ほほをぴくぴくしながら返事へんじしました。
「わっしはすぐそこで降ります。わっしは、鳥をつかまえる商売しようばいでね。」
「何鳥ですか。」
つるがんです。さぎも白鳥はくちようもです。」
「鶴はたくさんいますか。」
「居ますとも、さっきから鳴いてまさあ。聞かなかったのですか。」
「いいえ。」
「いまでも聞えるじゃありませんか。そら、耳をすましていてごらんなさい。」

81
二人は眼をげ、耳をすましました。ごとごと鳴る汽車のひびきと、すすきの風との間から、ころんころんと水のくような音が聞えて来るのでした。
「鶴、どうしてとるんですか。」
「鶴ですか、それともさぎですか。」
さぎです。」ジョバンニは、どっちでもいいと思いながら答えました。
「そいつはな、雑作ぞうさない。さぎというものは、みんな天の川の砂がこごって、ぼおっとできるもんですからね、そして始終しじゆう川へ帰りますからね、川原で待っていて、鷺がみんな、あしをこういう風にして下りてくるとこを、そいつが地べたへつくかつかないうちに、ぴたっと押えちまうんです。するともう鷺は、かたまって安心して死んじまいます。あとはもう、わかり切ってまさあ。にするだけです。」
「鷺を押し葉にするんですか。標本ひようほんですか。」
「標本じゃありません。みんなたべるじゃありませんか。」
「おかしいねえ。」カムパネルラが首をかしげました。
「おかしいも不審ふしんもありませんや。そら。」その男は立って、網棚あみだなからつつみをおろして、手ばやくくるくるときました。「さあ、ごらんなさい。いまとって来たばかりです。」
「ほんとうにさぎだねえ。」二人は思わず叫びました。まっ白な、あのさっきの北の十字架じゆうじかのように光る鷺のからだが、十ばかり、少しひらべったくなって、黒いあしをちぢめて、浮彫うきぼりのようにならんでいたのです。
「眼をつぶってるね。」カムパネルラは、指でそっと、鷺の三日月みかづきがたの白いつむった眼にさわりました。頭の上のやりのような白い毛もちゃんとついていました。
「ね、そうでしょう。」鳥捕とりとりは風呂敷ふろしきを重ねて、またくるくると包んでひもでくくりました。たれがいったいここらで鷺なんぞべるだろうとジョバンニは思いながら訊きました。
さぎはおいしいんですか。」
「ええ、毎日注文ちゆうもんがあります。しかしがんの方が、もっと売れます。雁の方がずっとがらがいいし、第一手数てすうがありませんからな。そら。」鳥捕りは、また別の方のつつみをきました。すると黄と青じろとまだらになって、なにかのあかりのようにひかる雁が、ちょうどさっきの鷺のように、くちばしをそろえて、少しひらべったくなって、ならんでいました。
「こっちはすぐべられます。どうです、少しおあがりなさい。」鳥捕りは、黄いろながんの足を、軽くひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできているように、すっときれいにはなれました。
「どうです。すこしたべてごらんなさい。」鳥りは、それを二つにちぎってわたしました。ジョバンニは、ちょっと喰べてみて、(なんだ、やっぱりこいつはお菓子かしだ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁が飛んでいるもんか。この男は、どこかそこらの野原の菓子屋かしやだ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子をたべているのは、大へん気の毒だ。)とおもいながら、やっぱりぽくぽくそれをたべていました。
「も少しおあがりなさい。」鳥捕りがまた包みを出しました。ジョバンニは、もっとたべたかったのですけれども、
「ええ、ありがとう。」と云って遠慮えんりよしましたら、鳥捕りは、こんどは向うの席の、かぎをもった人に出しました。
「いや、商売しようばいものをもらっちゃすみませんな。」その人は、帽子ぼうしをとりました。
「いいえ、どういたしまして。どうです、今年のわたり鳥の景気けいきは。」
「いや、すてきなもんですよ。一昨日おととい第二限だいにげんころなんか、なぜ燈台とうだいあかりを、規則きそく以外に間〔一字分空白〕させるかって、あっちからもこっちからも、電話で故障こしようが来ましたが、なあに、こっちがやるんじゃなくて、わたり鳥どもが、まっ黒にかたまって、あかしの前を通るのですから仕方しかたありませんや。わたしぁ、べらぼうめ、そんな苦情くじようは、おれのとこへ持って来たって仕方がねえや、ばさばさのマントを着てあしと口との途方とほうもなく細い大将たいしようへやれって、ってやりましたがね、はっは。」

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すすきがなくなったために、向うの野原から、ぱっとあかりがして来ました。
「鷺の方はなぜ手数てすうなんですか。」カムパネルラは、さっきから、こうと思っていたのです。
「それはね、鷺を喰べるには、」鳥捕りは、こっちにき直りました。
「天の川の水あかりに、十日もつるして置くかね、そうでなけぁ、砂に三四日うずめなけぁいけないんだ。そうすると、水銀すいぎんがみんな蒸発じようはつして、べられるようになるよ。」
「こいつは鳥じゃない。ただのお菓子でしょう。」やっぱりおなじことを考えていたとみえて、カムパネルラが、思い切ったというように、たずねました。鳥捕りは、何か大へんあわてた風で、
「そうそう、ここで降りなけぁ。」と云いながら、立って荷物をとったと思うと、もう見えなくなっていました。
「どこへ行ったんだろう。」二人は顔を見合せましたら、燈台守とうだいもりは、にやにや笑って、少しびあがるようにしながら、二人の横の窓の外をのぞきました。二人もそっちを見ましたら、たったいまの鳥捕りが、黄いろと青じろの、うつくしい燐光りんこうを出す、いちめんのかわらははこぐさの上に立って、まじめな顔をして両手をひろげて、じっとそらを見ていたのです。
「あすこへ行ってる。ずいぶん奇体きたいだねえ。きっとまた鳥をつかまえるとこだねえ。汽車が走って行かないうちに、早く鳥がおりるといいな。」とった途端とたん、がらんとした桔梗ききよういろの空から、さっき見たようなさぎが、まるで雪の降るように、ぎゃあぎゃあ叫びながら、いっぱいにいおりて来ました。するとあの鳥捕りは、すっかり注文通りだというようにほくほくして、両足をかっきり六十度に開いて立って、鷺のちぢめて降りて来る黒いあしを両手でかたぱしからおさえて、きれふくろの中に入れるのでした。すると鷺は、ほたるのように、袋の中でしばらく、青くぺかぺか光ったり消えたりしていましたが、おしまいとうとう、みんなぼんやり白くなって、をつぶるのでした。ところが、つかまえられる鳥よりは、つかまえられないで無事ぶじに天の川の砂の上に降りるものの方が多かったのです。それは見ていると、足が砂へつくや否や、まるで雪のけるように、ちぢまってひらべったくなって、間もなく熔鉱炉ようこうろから出たどうしるのように、砂や砂利じやりの上にひろがり、しばらくは鳥の形が、砂についているのでしたが、それも二三度明るくなったり暗くなったりしているうちに、もうすっかりまわりと同じいろになってしまうのでした。

83
鳥捕りは二十ぴきばかり、ふくろに入れてしまうと、急に両手をあげて、兵隊へいたいが鉄砲弾にあたって、死ぬときのような形をしました。と思ったら、もうそこに鳥捕りの形はなくなって、かえって、
「ああせいせいした。どうもからだに恰度ちようど合うほどかせいでいるくらい、いいことはありませんな。」というききおぼえのある声が、ジョバンニの隣りにしました。見ると鳥捕りは、もうそこでとって来たさぎを、きちんとそろえて、一つずつ重ね直しているのでした。
「どうしてあすこから、いっぺんにここへ来たんですか。」ジョバンニが、なんだかあたりまえのような、あたりまえでないような、おかしな気がして問いました。
「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか。」

84
ジョバンニは、すぐ返事へんじしようと思いましたけれども、さあ、ぜんたいどこから来たのか、もうどうしても考えつきませんでした。カムパネルラも、顔をまっ赤にして何か思い出そうとしているのでした。
「ああ、遠くからですね。」鳥捕りは、わかったというように雑作ぞうさなくうなずきました。


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       九、ジョバンニの切符きつぷ


「もうここらは白鳥はくちようのおしまいです。ごらんなさい。あれが名高なだかいアルビレオの観測所かんそくじよです。」

86
窓の外の、まるで花火でいっぱいのような、あまの川のまん中に、黒い大きな建物が四とうばかり立って、その一つのひら屋根やねの上に、眼もさめるような、青宝玉サフアイヤ黄玉トパースの大きな二つのすきとおったきゆうが、になってしずかにくるくるとまわっていました。黄いろのがだんだん向うへまわって行って、青い小さいのがこっちへ進んで来、間もなく二つのはじは、重なり合って、きれいな緑いろの両面凸りようめんとつレンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみ出して、とうとう青いのは、すっかりトパースの正面に来ましたので、緑の中心と黄いろな明るいとができました。それがまただんだん横へ外れて、前のレンズの形をぎやくかえし、とうとうすっとはなれて、サファイアは向うへめぐり、黄いろのはこっちへ進み、また丁度さっきのような風になりました。銀河の、かたちもなく音もない水にかこまれて、ほんとうにその黒い測候所そつこうじよが、ねむっているように、しずかによこたわったのです。
「あれは、水の速さをはかる器械きかいです。水も……。」鳥りが云いかけたとき、
「切符を拝見はいけんいたします。」三人の席の横に、赤い帽子ぼうしをかぶったせいの高い車掌しやしようが、いつかまっすぐに立っていて云いました。鳥捕りは、だまってかくしから、小さな紙きれを出しました。車掌はちょっと見て、すぐ眼をそらして、(あなた方のは?)というように、指をうごかしながら、手をジョバンニたちの方へ出しました。
「さあ、」ジョバンニは困って、もじもじしていましたら、カムパネルラは、わけもないという風で、小さなねずみいろの切符きつぷを出しました。ジョバンニは、すっかりあわててしまって、もしか上着うわぎのポケットにでも、入っていたかとおもいながら、手を入れて見ましたら、何か大きなたたんだ紙きれにあたりました。こんなもの入っていたろうかと思って、急いで出してみましたら、それは四つに折ったはがきぐらいのおおきさの緑いろの紙でした。車掌が手を出しているもんですから何でもかまわない、やっちまえと思って渡しましたら、車掌はまっすぐに立ち直って叮寧ていねいにそれを開いて見ていました。そして読みながら上着のぼたんやなんかしきりに直したりしていましたし燈台看守とうだいかんしゆも下からそれを熱心にのぞいていましたから、ジョバンニはたしかにあれは証明書しようめいしよか何かだったと考えて少しむねが熱くなるような気がしました。
「これは三次空間さんじくうかんの方からお持ちになったのですか。」車掌しやしようがたずねました。
「何だかわかりません。」もう大丈夫だと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑いました。
「よろしゅうございます。南十字サウザンクロスへ着きますのは、次の第三時ころになります。」車掌は紙をジョバンニに渡して向うへ行きました。

87
カムパネルラは、その紙切れが何だったかねたというように急いでのぞきこみました。ジョバンニも全く早く見たかったのです。ところがそれはいちめん黒い唐草からくさのような模様もようの中に、おかしな十ばかりの字を印刷したものでだまって見ていると何だかその中へまれてしまうような気がするのでした。すると鳥捕りが横からちらっとそれを見てあわてたようにいました。
「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上てんじようへさえ行ける切符きつぷだ。天上どこじゃない、どこでも勝手かつてにあるける通行券つうこうけんです。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全ふかんぜん幻想第げんそうだい四次よじの銀河鉄道なんか、どこまででも行けるはずでさあ、あなた方大したもんですね。」
「何だかわかりません。」ジョバンニが赤くなって答えながらそれを又畳またたたんでかくしに入れました。そしてきまりが悪いのでカムパネルラと二人、また窓の外をながめていましたが、その鳥捕りの時々大したもんだというようにちらちらこっちを見ているのがぼんやりわかりました。
「もうじきわしの停車場だよ。」カムパネルラが向う岸の、三つならんだ小さな青じろい三角標と地図とを見較みくらべて云いました。

88
ジョバンニはなんだかわけもわからずににわかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまえてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたように横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一一考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原かわらに立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももうだまっていられなくなりました。ほんとうにあなたのほしいものは一体いつたい何ですか、とこうとして、それではあんまり出し抜けだから、どうしょうかと考えてかえって見ましたら、そこにはもうあの鳥捕りが居ませんでした。網棚あみだなの上には白い荷物にもつも見えなかったのです。また窓の外で足をふんばってそらを見上げて鷺を捕る支度したくをしているのかと思って、急いでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子すなごと白いすすきの波ばかり、あの鳥捕りの広いせなかも尖った帽子も見えませんでした。
「あの人どこへ行ったろう。」カムパネルラもぼんやりそう云っていました。
「どこへ行ったろう。一体いつたいどこでまたあうのだろう。僕はどうしても少しあの人に物を言わなかったろう。」
「ああ、僕もそう思っているよ。」
「僕はあの人が邪魔じやまなような気がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」ジョバンニはこんな変てこな気もちは、ほんとうにはじめてだし、こんなこと今まで云ったこともないと思いました。
「何だか苹果りんごにおいがする。僕いま苹果のこと考えたためだろうか。」カムパネルラが不思議ふしぎそうにあたりを見まわしました。
「ほんとうに苹果の匂だよ。それから野茨のいばらの匂もする。」ジョバンニもそこらを見ましたがやっぱりそれは窓からでも入って来るらしいのでした。いま秋だから野茨の花の匂のする筈はないとジョバンニは思いました。

89
そしたらにわかにそこに、つやつやした黒いかみの六つばかりの男の子が赤いジャケツのぼたんもかけずひどくびっくりしたような顔をしてがたがたふるえてはだしで立っていました。となりには黒い洋服ようふくをきちんと着たせいの高い青年せいねんが一ぱいに風に吹かれているけやきの木のような姿勢しせいで、男の子の手をしっかりひいて立っていました。
「あら、ここどこでしょう。まあ、きれいだわ。」青年のうしろにもひとり十二ばかりのちやいろな可愛かあいらしい女の子が黒い外套がいとうを着て青年のうでにすがって不思議そうに窓の外を見ているのでした。
「ああ、ここはランカシャイヤだ。いや、コンネクテカットしゆうだ。いや、ああ、ぼくたちはそらへ来たのだ。わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい。あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこわいことありません。わたくしたちは神さまに召されているのです。」黒服くろふくの青年はよろこびにかがやいてその女の子に云いました。けれどもなぜかまたひたいに深くしわきざんで、それに大へんつかれているらしく、無理むりに笑いながら男の子をジョバンニのとなりにすわらせました。

90
それから女の子にやさしくカムパネルラのとなりの席を指さしました。女の子はすなおにそこへ座って、きちんと両手を組み合せました。
「ぼくおおねえさんのとこへ行くんだよう。」腰掛こしかけたばかりの男の子は顔を変にして燈台看守とうだいかんしゆの向うの席に座ったばかりの青年に云いました。青年は何とも云えずかなしそうな顔をして、じっとその子の、ちぢれてぬれた頭を見ました。女の子は、いきなり両手を顔にあててしくしく泣いてしまいました。
「お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお仕事があるのです。けれどももうすぐあとからいらっしゃいます。それよりも、おっかさんはどんなにながく待っていらっしゃったでしょう。わたしの大事なタダシはいまどんな歌をうたっているだろう、雪の降る朝にみんなと手をつないでぐるぐるにわとこのやぶをまわってあそんでいるだろうかと考えたりほんとうに待って心配しんぱいしていらっしゃるんですから、早く行っておっかさんにお目にかかりましょうね。」
「うん、だけどぼく、船にらなけぁよかったなあ。」
「ええ、けれど、ごらんなさい、そら、どうです、あの立派りつぱな川、ね、あすこはあの夏中、ツインクル、ツインクル、リトル、スター をうたってやすむとき、いつも窓からぼんやり白く見えていたでしょう。あすこですよ。ね、きれいでしょう、あんなに光っています。」

91
泣いていた姉もハンケチで眼をふいて外を見ました。青年は教えるようにそっと姉弟きようだいにまた云いました。
「わたしたちはもうなんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないいとこを旅して、じき神さまのとこへ行きます。そこならもうほんとうに明るくて匂がよくて立派な人たちでいっぱいです。そしてわたしたちの代りにボートへ乗れた人たちは、きっとみんな助けられて、心配して待っているめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。さあ、もうじきですから元気を出しておもしろくうたって行きましょう。」青年は男の子のぬれたような黒い髪をなで、みんなをなぐさめながら、自分もだんだん顔いろがかがやいて来ました。
「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか。」さっきの燈台看守とうだいかんしゆがやっと少しわかったように青年にたずねました。青年はかすかにわらいました。
「いえ、氷山ひようざんにぶっつかって船がしずみましてね、わたしたちはこちらのお父さんが急な用で二ヶ月前一足ひとあしさきに本国へお帰りになったのであとからったのです。私は大学へはいっていて、家庭かてい教師きようしにやとわれていたのです。ところがちょうど十二日目、今日か昨日のあたりです、船が氷山にぶっつかって一ぺんにかたむきもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、きり非常ひじように深かったのです。ところがボートは左舷さげんの方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなはり切らないのです。もうそのうちにも船はしずみますし、私は必死ひつしとなって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのためにいのってれました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇気ゆうきがなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務ぎむだと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福こうふくだとも思いました。それからまたその神にそむくつみはわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。けれどもどうして見ているとそれができないのでした。子どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが狂気きようきのようにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなどとてももうはらわたもちぎれるようでした。そのうち船はもうずんずん沈みますから、私はもうすっかり覚悟かくごしてこの人たち二人をいて、うかべるだけは浮ぼうとかたまって船の沈むのを待っていました。誰が投げたかライフヴイが一つ飛んで来ましたけれどもすべってずうっと向うへ行ってしまいました。私は一生いつしようけんめい甲板かんぱん格子こうしになったとこをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく〔約二字分空白〕番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたいました。そのとき俄かに大きな音がして私たちは水に落ちました。もううずに入ったと思いながらしっかりこの人たちをだいてそれからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。この方たちのお母さんは一昨年くなられました。ええボートはきっと助かったにちがいありません、何せよほど熟練じゆくれんな水夫たちがいですばやく船からはなれていましたから。」

92
そこらから小さな嘆息やいのりの声が聞えジョバンニもカムパネルラもいままで忘れていたいろいろのことをぼんやり思い出して眼があつくなりました。
(ああ、その大きな海はパシフィックというのではなかったろうか。その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく潮水しおみずや、はげしい寒さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。ぼくはそのひとにほんとうに気のどくでそしてすまないような気がする。ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう。)ジョバンニは首をれて、すっかりふさぎ込んでしまいました。
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」

93
燈台守とうだいもりがなぐさめていました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」

94
青年がいのるようにそう答えました。

95
そしてあの姉弟きようだいはもうつかれてめいめいぐったり席によりかかってねむっていました。さっきのあのはだしだった足にはいつか白いやわらかなくつをはいていたのです。

96
ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光りんこうの川の岸を進みました。向うの方の窓を見ると、野原はまるで幻燈げんとうのようでした。百も千もの大小さまざまの三角標さんかくひよう、その大きなものの上には赤い点点てんてんをうった測量旗そくりようきも見え、野原のはてはそれらがいちめん、たくさんたくさんあつまってぼおっと青白いきりのよう、そこからかまたはもっと向うからかときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙のろしのようなものが、かわるがわるきれいな桔梗ききよういろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとおった奇麗きれいな風は、ばらのにおいでいっぱいでした。
「いかがですか。こういう苹果りんごはおはじめてでしょう。」向うの席の燈台看守とうだいかんしゆがいつか黄金きんべにでうつくしくいろどられた大きな苹果を落さないように両手りようてひざの上にかかえていました。
「おや、どっから来たのですか。立派ですねえ。ここらではこんな苹果ができるのですか。」青年はほんとうにびっくりしたらしく燈台看守とうだいかんしゆの両手にかかえられた一もりの苹果を眼を細くしたり首をまげたりしながらわれを忘れてながめていました。
「いや、まあおとり下さい。どうか、まあおとり下さい。」

97
青年は一つとってジョバンニたちの方をちょっと見ました。
「さあ、向うの坊ちゃんがた。いかがですか。おとり下さい。」ジョバンニは坊ちゃんといわれたのですこししゃくにさわってだまっていましたがカムパネルラは
「ありがとう、」と云いました。すると青年は自分でとって一つずつ二人に送ってよこしましたのでジョバンニも立ってありがとうと云いました。

98
燈台看守はやっと両腕りよううでがあいたのでこんどは自分で一つずつねむっている姉弟のひざにそっと置きました。
「どうもありがとう。どこでできるのですか。こんな立派な苹果は。」

99
青年はつくづく見ながら云いました。
「この辺ではもちろん農業のうぎようはいたしますけれども大ていひとりでにいいものができるような約束やくそくになってります。農業だってそんなにほねれはしません。たいてい自分ののぞ種子たねさえけばひとりでにどんどんできます。米だってパシフィックあたりのようにからもないし十倍も大きくて匂もいいのです。けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。苹果だってお菓子かしだってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわずかのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです。」

100
にわかに男の子がぱっちり眼をあいて云いました。「ああぼくいまお母さんの夢をみていたよ。お母さんがね立派りつぱ戸棚とだなや本のあるとこに居てね、ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼくおっかさん。りんごをひろってきてあげましょうか云ったら眼がさめちゃった。ああここさっきの汽車のなかだねえ。」
「その苹果がそこにあります。このおじさんにいただいたのですよ。」青年が云いました。
「ありがとうおじさん。おや、かほるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやろう。ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん。」

101
姉はわらって眼をさましまぶしそうに両手を眼にあててそれから苹果を見ました。男の子はまるでパイを喰べるようにもうそれを喰べていました、また折角剥せつかくむいたそのきれいな皮も、くるくるコルクきのような形になって床へちるまでの間にはすうっと、灰いろに光って蒸発じようはつしてしまうのでした。

102
二人はりんごを大切にポケットにしまいました。

103
川下の向う岸に青くしげった大きな林が見え、その枝にはじゆくしてまっ赤に光るまるい実がいっぱい、その林のまん中に高い高い三角標が立って、森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまじって何ともえずきれいな音いろが、とけるようにみるように風につれて流れて来るのでした。

104
青年せいねんはぞくっとしてからだをふるうようにしました。

105
だまってそのを聞いていると、そこらにいちめん黄いろやうすい緑の明るい野原か敷物しきものかがひろがり、またまっ白なろうのようなつゆが太陽の面をかすめて行くように思われました。
「まあ、あの烏。」カムパネルラのとなりのかほると呼ばれた女の子が叫びました。
「からすでない。みんなかささぎだ。」カムパネルラがまた何気なにげなくしかるように叫びましたので、ジョバンニはまた思わず笑い、女の子はきまり悪そうにしました。まったく河原かわらの青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいっぱいに列になってとまってじっと川の微光びこうを受けているのでした。
「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんとびてますから。」青年はとりなすように云いました。

106
向うの青い森の中の三角標はすっかり汽車の正面に来ました。そのとき汽車のずうっとうしろの方からあの聞きなれた〔約二字分空白〕番の讃美歌さんびかのふしが聞えてきました。よほどの人数で合唱がつしようしているらしいのでした。青年はさっと顔いろが青ざめ、たって一ぺんそっちへ行きそうにしましたが思いかえしてまたすわりました。かほる子はハンケチを顔にあててしまいました。ジョバンニまで何だか鼻が変になりました。けれどもいつともなく誰ともなくその歌は歌い出されだんだんはっきり強くなりました。思わずジョバンニもカムパネルラも一諸いつしよにうたい出したのです。

107
そして青い橄欖かんらんの森が見えない天の川の向うにさめざめと光りながらだんだんうしろの方へ行ってしまいそこから流れて来るあやしい楽器がつきの音ももう汽車のひびきや風の音にすり耗らされてずうっとかすかになりました。
「あ孔雀くじやくるよ。」
「ええたくさん居たわ。」女の子がこたえました。

108
ジョバンニはその小さく小さくなっていまはもう一つの緑いろのかいぼたんのように見える森の上にさっさっと青じろく時々ときどき光ってその孔雀くじやくがはねをひろげたりとじたりする光の反射はんしやを見ました。
「そうだ、孔雀の声だってさっき聞えた。」カムパネルラがかほる子にいました。
「ええ、三十疋ぐらいはたしかにたわ。ハープのように聞えたのはみんな孔雀よ。」女の子が答えました。ジョバンニはにわかに何とも云えずかなしい気がして思わず
「カムパネルラ、ここからはねおりて遊んで行こうよ。」とこわい顔をして云おうとしたくらいでした。

109
(カムパネルラ、僕もう行っちまうぞ。僕なんか鯨だって見たことないや)ジョバンニはまるでたまらないほどいらいらしながらそれでもかたく唇をんでこらえて窓の外を見ていました。その窓の外には海豚いるかの形ももう見えなくなって川は二つにわかれました。そのまっくらな島のまん中に高い高いやぐらが一つ組まれてその上に一人のゆるい服を着て赤い帽子ぼうしをかぶった男が立っていました。そして両手に赤と青のはたをもってそらを見上げて信号しているのでした。ジョバンニが見ている間その人はしきりに赤い旗をふっていましたがにわかに赤旗あかはたをおろしてうしろにかくすようにし青い旗を高く高くあげてまるでオーケストラの指揮しきしやのようにはげしくりました。すると空中にざあっと雨のような音がして何かまっくらなものがいくかたまりもいくかたまりも鉄砲丸てつぽうだまのように川の向うの方へ飛んで行くのでした。ジョバンニは思わず窓からからだを半分出してそっちを見あげました。美しい美しい桔梗ききよういろのがらんとした空の下を実に何万という小さな鳥どもが幾組いくくみも幾組もめいめいせわしくせわしく鳴いて通って行くのでした。
「鳥が飛んで行くな。」ジョバンニが窓の外で云いました。
「どら、」カムパネルラもそらを見ました。そのときあのやぐらの上のゆるい服の男は俄かに赤い旗をあげて狂気きようきのようにふりうごかしました。するとぴたっと鳥のむれは通らなくなりそれと同時にぴしゃぁんというつぶれたような音が川下の方で起ってそれからしばらくしいんとしました。と思ったらあの赤帽あかぼう信号手しんごうしゆがまた青い旗をふって叫んでいたのです。
「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥。」その声もはっきり聞えました。それといっしょにまた幾万いくまんという鳥のむれがそらをまっすぐにかけたのです。二人の顔を出しているまん中の窓からあの女の子が顔を出して美しいほおをかがやかせながらそらをあおぎました。
「まあ、この鳥、たくさんですわねえ、あらまあそらのきれいなこと。」女の子はジョバンニにはなしかけましたけれどもジョバンニは生意気なまいきないやだいと思いながらだまって口をむすんでそらを見あげていました。女の子は小さくほっと息をしてだまって席へもどりました。カムパネルラが気のどくそうに窓から顔を引っ込めて地図を見ていました。
「あの人鳥へ教えてるんでしょうか。」女の子がそっとカムパネルラにたずねました。
「わたり鳥へ信号してるんです。きっとどこからかのろしがあがるためでしょう。」カムパネルラが少しおぼつかなそうに答えました。そして車の中はしぃんとなりました。ジョバンニはもう頭を引っ込めたかったのですけれども明るいとこへ顔を出すのがつらかったのでだまってこらえてそのまま立って口笛を吹いていました。
(どうして僕はこんなにかなしいのだろう。僕はもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうっと向うにまるでけむりのような小さな青い火が見える。あれはほんとうにしずかでつめたい。僕はあれをよく見てこころもちをしずめるんだ。)ジョバンニはほてって痛いあたまを両手で押えるようにしてそっちの方を見ました。(ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうにはなしているし僕はほんとうにつらいなあ。)ジョバンニの眼はまたなみだでいっぱいになり天の川もまるで遠くへ行ったようにぼんやり白く見えるだけでした。

110
そのとき汽車はだんだん川からはなれてがけの上を通るようになりました。向う岸もまた黒いいろの崖が川の岸を下流に下るにしたがってだんだん高くなって行くのでした。そしてちらっと大きなとうもろこしの木を見ました。その葉はぐるぐるにちぢれ葉の下にはもう美しい緑いろの大きなほうが赤い毛をいて真珠しんじゆのような実もちらっと見えたのでした。それはだんだん数を増して来てもういまは列のように崖と線路せんろとの間にならび思わずジョバンニが窓から顔を引っ込めて向う側の窓を見ましたときは美しいそらの野原の地平線ちへいせんのはてまでその大きなとうもろこしの木がほとんどいちめんにえられてさやさや風にゆらぎその立派りつぱなちぢれた葉のさきからはまるでひるの間にいっぱい日光をった金剛石こんごうせきのようにつゆがいっぱいについて赤や緑やきらきら燃えて光っているのでした。カムパネルラが「あれとうもろこしだねえ」とジョバンニに云いましたけれどもジョバンニはどうしても気持がなおりませんでしたからただぶっきりぼうに野原を見たまま「そうだろう。」と答えました。そのとき汽車はだんだんしずかになっていくつかのシグナルとてんてつあかりを過ぎ小さな停車場にとまりました。

111
その正面しようめんの青じろい時計はかっきり第二時を示しその振子ふりこは風もなくなり汽車もうごかずしずかなしずかな野原のなかにカチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。

112
そしてそのころなら汽車は、新世界交響楽のように鳴りました。車の中ではあの黒服くろふくたけ高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいとこで僕はどうしてもっと愉快ゆかいになれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、僕といっしょに汽車に乗っていながらまるであんな女の子とばかりはなしているんだもの。僕はほんとうにつらい。)ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして向うの窓のそとを見つめていました。すきとおった硝子ガラスのような笛が鳴って汽車はしずかに動き出しカムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛を吹きました。
「ええ、ええ、もうこの辺はひどい高原ですから。」うしろの方で誰かとしよりらしい人のいま眼がさめたという風ではきはきはなしている声がしました。
「とうもろこしだってぼうで二しやくあなをあけておいてそこへかないと生えないんです。」
「そうですか。川まではよほどありましょうかねえ、」
「ええええかわまでは二千尺から六千尺あります。もうまるでひどい峡谷きようこくになっているんです。」

113
そうそうここはコロラドの高原じゃなかったろうか、ジョバンニは思わずそう思いました。向うではあの一ばんの姉が小さな妹を自分の旨によりかからせて睡らせながら黒い瞳をうっとりと遠くへ投げて何を見るでもなしに考え込んでいるのでしたしカムパネルラはまださびしそうにひとり口笛を吹き、二番目の女の子はまるできぬつつんだ苹果のような顔いろをしてジョバンニの見る方を見ているのでした。突然とうもろこしがなくなっておおきな黒い野原がいっぱいにひらけました。新世界交響楽はいよいよはっきり地平線のはてからきそのまっ黒な野原のなかを一人のインデアンが白い鳥の羽根はねを頭につけたくさんの石をうでむねにかざり小さな弓に矢をつがえて一目散いちもくさんに汽車を追って来るのでした。
「あら、インデアンですよ。インデアンですよ。おねえさまごらんなさい。」

114
黒服くろふくの青年も眼をさましました。ジョバンニもカムパネルラも立ちあがりました。
「走って来るわ、あら、走って来るわ。追いかけているんでしょう。」
「いいえ、汽車を追ってるんじゃないんですよ。りようをするかおどるかしてるんですよ。」青年はいまどこに居るか忘れたという風にポケットに手を入れて立ちながら云いました。

115
まったくインデアンは半分はおどっているようでした。第一かけるにしても足のふみようがもっと経済けいざいもとれ本気にもなれそうでした。にわかにくっきり白いその羽根は前の方へたおれるようになりインデアンはぴたっと立ちどまってすばやく弓を空にひきました。そこから一羽のつるがふらふらと落ちて来てまた走り出したインデアンの大きくひろげた両手に落ちこみました。インデアンはうれしそうに立ってわらいました。そしてそのつるをもってこっちを見ている影ももうどんどん小さく遠くなり電しんばしらの碍子がきらっきらっと続いて二つばかり光ってまたとうもろこしの林になってしまいました。こっち側の窓を見ますと汽車はほんとうに高い高いがけの上を走っていてその谷の底には川がやっぱりはばひろく明るく流れていたのです。
「ええ、もうこの辺から下りです。何せこんどは一ぺんにあの水面までおりて行くんですから容易よういじゃありません。この傾斜けいしやがあるもんですから汽車は決して向うからこっちへは来ないんです。そら、もうだんだん早くなったでしょう。」さっきの老人ろうじんらしい声が云いました。

116
どんどんどんどん汽車は降りて行きました。崖のはじに鉄道がかかるときは川が明るく下にのぞけたのです。ジョバンニはだんだんこころもちが明るくなって来ました。汽車が小さな小屋の前を通ってその前にしょんぼりひとりの子供が立ってこっちを見ているときなどは思わずほうと叫びました。

117
どんどんどんどん汽車は走って行きました。室中へやじゆうのひとたちは半分うしろの方へたおれるようになりながら腰掛こしかけにしっかりしがみついていました。ジョバンニは思わずカムパネルラとわらいました。もうそして天の川は汽車のすぐ横手よこてをいままでよほどはげしく流れて来たらしくときどきちらちら光ってながれているのでした。うすあかい河原かわらなでしこの花があちこち咲いていました。汽車はようやく落ち着いたようにゆっくりと走っていました。

118
向うとこっちの岸に星のかたちとつるはしを書いたぼうがたっていました。
「あれ何のはただろうね。」ジョバンニがやっとものを云いました。
「さあ、わからないねえ、地図にもないんだもの。鉄の舟がおいてあるねえ。」
「ああ。」
「橋をけるとこじゃないんでしょうか。」女の子が云いました。
「あああれ工兵こうへいの旗だねえ。架橋演習かきようえんしゆうをしてるんだ。けれど兵隊へいたいのかたちが見えないねえ。」

119
その時向う岸ちかくの少し下流の方で見えない天の川の水がぎらっと光って柱のように高くはねあがりどぉとはげしい音がしました。
発破はつぱだよ、発破だよ。」カムパネルラはこおどりしました。

120
その柱のようになった水は見えなくなり大きなさけますがきらっきらっと白くはらを光らせて空中にほうり出されて円いえがいてまた水に落ちました。ジョバンニはもうはねあがりたいくらい気持が軽くなって云いました。
「空の工兵大隊こうへいだいたいだ。どうだ、ますやなんかがまるでこんなになってはねあげられたねえ。僕こんな愉快ゆかいたびはしたことない。いいねえ。」
「あの鱒なら近くで見たらこれくらいあるねえ、たくさんさかな居るんだな、この水の中に。」
「小さなお魚もいるんでしょうか。」女の子がはなしにつり込まれて云いました。「居るんでしょう。大きなのが居るんだから小さいのもいるんでしょう。けれど遠くだからいま小さいの見えなかったねえ。」ジョバンニはもうすっかり機嫌きげんが直って面白そうにわらって女の子に答えました。
「あれきっと双子ふたごのお星さまのおみやだよ。」男の子がいきなり窓の外をさして叫びました。

121
右手の低い丘の上に小さな水晶すいしようででもこさえたような二つのお宮がならんで立っていました。
「双子のお星さまのお宮って何だい。」
「あたし前になんべんもお母さんから聴いたわ。ちゃんと小さな水晶のお宮で二つならんでいるからきっとそうだわ。」
「はなしてごらん。双子のお星さまが何したっての。」
「ぼくも知ってらい。双子のお星さまが野原へ遊びにでてからすと喧嘩けんかしたんだろう。」
「そうじゃないわよ。あのね、天の川の岸にね、おっかさんお話なすったわ、……」
「それから彗星すいせいがギーギーフーギーギーフーて云って来たねえ。」
「いやだわたあちゃんそうじゃないわよ。それはべつの方だわ。」
「するとあすこにいまふえを吹いてるんだろうか。」
「いま海へ行ってらあ。」
「いけないわよ。もう海からあがっていらっしゃったのよ。」
「そうそう。ぼく知ってらあ、ぼくおはなししよう。」

122
川の向う岸がにわかに赤くなりました。やなぎの木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のように赤く光りました。まったく向う岸の野原に大きなまっ赤な火がされその黒いけむりは高く桔梗ききよういろのつめたそうな天をもがしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりもうつくしくったようになってその火は燃えているのでした。
「あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう。」ジョバンニが云いました。
さそりの火だな。」カムパネルラがまた地図と首っ引きして答えました。
「あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ。」
「蝎の火って何だい。」ジョバンニがききました。
「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんからいたわ。」
「蝎って、虫だろう。」
「ええ、蝎は虫よ。だけどいい虫だわ。」
「蝎いい虫じゃないよ。僕博物館はくぶつかんでアルコールにつけてあるの見た。にこんなかぎがあってそれでされると死ぬって先生がったよ。」
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さんう云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきのさそりがいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附みつかって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命げてげたけどとうとういたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸いどがあってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりはおぼれはじめたのよ。そのときさそりは斯う云っておいのりしたというの、

123
ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみをらしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さんおつしやったわ。ほんとうにあの火それだわ。」
「そうだ。見たまえ。そこらの三角標はちょうどさそりの形にならんでいるよ。」

124
ジョバンニはまったくその大きな火の向うに三つの三角標がちょうどさそりのうでのようにこっちに五つの三角標がさそりの尾やかぎのようにならんでいるのを見ました。そしてほんとうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。

125
その火がだんだんうしろの方になるにつれてみんなは何とも云えずにぎやかなさまざまの楽の音や草花のにおいのようなもの口笛くちぶえや人々のざわざわ云う声やらを聞きました。それはもうじきちかくに町か何かがあってそこにお祭でもあるというような気がするのでした。
「ケンタウルつゆをふらせ。」いきなりいままでねむっていたジョバンニのとなりの男の子が向うの窓を見ながら叫んでいました。

126
ああそこにはクリスマストリイのようにまっ青な唐檜とうひかもみの木がたってその中にはたくさんのたくさんの豆電燈まめでんとうがまるで千のほたるでもあつまったようについていました。
「ああ、そうだ、今夜ケンタウル祭だねえ。」
「ああ、ここはケンタウルの村だよ。」カムパネルラがすぐ云いました。〔以下原稿一枚?なし〕

「ボールげなら僕けつしてはずさない。」

127
男の子が大威張おおいばりで云いました。
「もうじきサウザンクロスです。おりる支度したくをして下さい。」青年がみんなに云いました。
「僕も少し汽車へ乗ってるんだよ。」男の子が云いました。カムパネルラのとなりの女の子はそわそわ立って支度をはじめましたけれどもやっぱりジョバンニたちとわかれたくないようなようすでした。
「ここでおりなけぁいけないのです。」青年はきちっと口をむすんで男の子を見おろしながら云いました。「いやだい。僕もう少し汽車へ乗ってから行くんだい。」

128
ジョバンニがこらえねて云いました。
「僕たちと一諸いつしよって行こう。僕たちどこまでだって行ける切符ってるんだ。」
「だけどあたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上てんじようへ行くとこなんだから。」女の子がさびしそうに云いました。
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」
「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまがっしゃるんだわ。」
「そんな神さまうその神さまだい。」
「あなたの神さまうその神さまよ。」
「そうじゃないよ。」
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」
「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることをいのります。」青年はつつましく両手を組みました。女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうにわかれがしそうでその顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出そうとしました。
「さあもう仕度したくはいいんですか。じきサウザンクロスですから。」

129
ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青やだいだいやもうあらゆる光でちりばめられた十字架じゆうじかがまるで一本の木という風に川の中から立ってかがやきその上には青じろい雲がまるいになって后光ごこうのようにかかっているのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのようにまっすぐに立っておいのりをはじめました。あっちにもこっちにも子供がうりに飛びついたときのようなよろこびの声や何とも云いようない深いつつましいためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十字架は窓の正面になりあの苹果の肉のような青じろいの雲もゆるやかにゆるやかにめぐっているのが見えました。
「ハルレヤハルレヤ。」明るくたのしくみんなの声はひびきみんなはそのそらの遠くからつめたいそらの遠くからすきとおった何とも云えずさわやかなラッパの声をききました。そしてたくさんのシグナルや電燈でんとうの灯のなかを汽車はだんだんゆるやかになりとうとう十字架のちょうどま向いに行ってすっかりとまりました。
「さあ、下りるんですよ。」青年は男の子の手をひき姉妹たちは互にえりや肩を直してやってだんだん向うの出口の方へ歩き出しました。
「じゃさよなら。」女の子がふりかえって二人に云いました。
「さよなら。」ジョバンニはまるで泣き出したいのをこらえて怒ったようにぶっきりぼうに云いました。女の子はいかにもつらそうに眼を大きくしても一度こっちをふりかえってそれからあとはもうだまって出て行ってしまいました。汽車の中はもう半分以上も空いてしまいにわかにがらんとしてさびしくなり風がいっぱいに吹き込みました。

130
そして見ているとみんなはつつましく列を組んであの十字架の前の天の川のなぎさにひざまずいていました。そしてその見えない天の川の水をわたってひとりの神々しい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう硝子の呼子よぶこは鳴らされ汽車はうごき出しと思ううちに銀いろのきりが川下の方からすうっと流れて来てもうそっちは何も見えなくなりました。ただたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らしてその霧の中に立ち黄金の円光をもった電気栗鼠りす可愛かあいい顔をその中からちらちらのぞいているだけでした。

131
そのときすうっと霧がはれかかりました。どこかへ行く街道かいどうらしく小さな電燈でんとう一列いちれつについた通りがありました。それはしばらく線路せんろに沿って進んでいました。そして二人がそのあかしの前を通って行くときはその小さな豆いろの火はちょうど挨拶あいさつでもするようにぽかっと消え二人が過ぎて行くときまた点くのでした。

132
ふりかえって見るとさっきの十字架はすっかり小さくなってしまいほんとうにもうそのままむねにも吊されそうになり、さっきの女の子や青年たちがその前の白いなぎさにまだひざまずいているのかそれともどこか方角もわからないその天上へ行ったのかぼんやりして見分けられませんでした。

133
ジョバンニはああと深く息しました。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺんいてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体いつたい何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力がくようにふうと息をしながら云いました。
「あ、あすこ石炭袋せきたんぶくろだよ。そらのあなだよ。」カムパネルラが少しそっちをけるようにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどおんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云いました。
「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸いつしよに進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。

134
ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかりどうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。何とも云えずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向うの河岸かわぎしに二本の電信ばしらが丁度両方ちようどりようほうから腕を組んだように赤い腕木うでぎをつらねて立っていました。「カムパネルラ、僕たち一諸いつしよに行こうねえ。」ジョバンニがう云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずジョバンニはまるで鉄砲丸てつぽうだまのように立ちあがりました。そして誰にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉のどいっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。

135
ジョバンニはをひらきました。もとの丘の草の中につかれてねむっていたのでした。むねは何だかおかしくほてほおにはつめたいなみだがながれていました。

136
ジョバンニはばねのようにはね起きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの灯をつづってはいましたがその光はなんだかさっきよりはじゆくしたという風でした。そしてたったいま夢であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかりまっ黒な南の地平線の上ではことにけむったようになってその右には蠍座さそりざの赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置はそんなに変ってもいないようでした。

137
ジョバンニはいつさんに丘を走って下りました。まだ夕ごはんをたべないで待っているお母さんのことが胸いっぱいに思いだされたのです。どんどん黒い松の林の中を通ってそれからほの白い牧場ぼくじようさくをまわってさっきの入口から暗い牛舎ぎゆうしやの前へまた来ました。そこには誰かがいま帰ったらしくさっきなかった一つの車が何かのたるを二つ乗っけて置いてありました。
「今晩は、」ジョバンニは叫びました。
「はい。」白い太いずぼんをはいた人がすぐ出て来て立ちました。
「何のご用ですか。」
「今日牛乳ぎゆうにゆうがぼくのところへ来なかったのですが」
「あみませんでした。」その人はすぐ奥へ行って一本の牛乳びんをもって来てジョバンニに渡しながらまた云いました。
「ほんとうに、済みませんでした。今日はひるすぎうっかりしてこうしのさくをあけて置いたもんですから大将早速たいしようさつそく親牛のところへ行って半分ばかりんでしまいましてね……」その人はわらいました。
「そうですか。ではいただいて行きます。」
「ええ、どうも済みませんでした。」
「いいえ。」

138
ジョバンニはまだ熱いちちびんを両方のてのひらで包むようにもって牧場の柵を出ました。

139
そしてしばらく木のある町を通って大通りへ出てまたしばらく行きますとみちは十文字になってその右手の方通りのはずれにさっきカムパネルラたちのあかりを流しに行った川へかかった大きな橋のやぐらが夜のそらにぼんやり立っていました。

140
ところがその十字になった町かどや店の前に女たちが七八人ぐらいずつ集って橋の方を見ながら何かひそひそ談しているのです。それから橋の上にもいろいろなあかりがいっぱいなのでした。

141
ジョバンニはなぜかさあっとむねが冷たくなったように思いました。そしていきなり近くの人たちへ
「何かあったんですか。」と叫ぶようにききました。
「こどもが水へ落ちたんですよ。」一人が云いますとその人たちは一斉いつせいにジョバンニの方を見ました。ジョバンニはまるで夢中むちゆうで橋の方へ走りました。橋の上は人でいっぱいで河が見えませんでした。白い服を着た巡査じゆんさも出ていました。

142
ジョバンニは橋のたもとから飛ぶように下の広い河原へおりました。

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その河原の水際みずぎわ沿ってたくさんのあかりがせわしくのぼったり下ったりしていました。向う岸の暗いどてにも火が七つ八つうごいていました。そのまん中をもう烏瓜からすうりのあかりもない川が、わずかに音をたてて灰いろにしずかに流れていたのでした。

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河原のいちばん下流かりゆうの方へのようになって出たところに人の集りがくっきりまっ黒に立っていました。ジョバンニはどんどんそっちへ走りました。するとジョバンニはいきなりさっきカムパネルラといっしょだったマルソに会いました。マルソがジョバンニに走り寄ってきました。
「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ。」
「どうして、いつ。」
「ザネリがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押してやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」
「みんなさがしてるんだろう。」
「ああすぐみんな来た。カムパネルラのお父さんも来た。けれども見附みつからないんだ。ザネリはうちへれられてった。」ジョバンニはみんなのるそっちの方へ行きました。そこに学生たち町の人たちに囲まれて青じろいとがったあごをしたカムパネルラのお父さんが黒いふくを着てまっすぐに立って右手に持った時計をじっと見つめていたのです。

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みんなもじっとかわを見ていました。誰も一言もものう人もありませんでした。ジョバンニはわくわくわくわく足がふるえました。魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせわしく行ったり来たりして黒い川の水はちらちら小さななみをたてて流れているのが見えるのでした。

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下流の方の川はば一ぱい銀河ぎんがおおきく写ってまるで水のないそのままのそらのように見えました。

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ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。

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けれどもみんなはまだ、どこかのなみの間から、
「ぼくずいぶん泳いだぞ。」と云いながらカムパネルラが出て来るかあるいはカムパネルラがどこかの人の知らないにでも着いて立っていて誰かの来るのを待っているかというような気がして仕方しかたないらしいのでした。けれども俄かにカムパネルラのお父さんがきっぱり云いました。
「もう駄目だめです。落ちてから四十五分たちましたから。」

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ジョバンニは思わずかけよって博士の前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方を知っていますぼくはカムパネルラといっしょに歩いていたのですと云おうとしましたがもうのどがつまって何とも云えませんでした。すると博士はジョバンニが挨拶あいさつに来たとでも思ったものですか、しばらくしげしげジョバンニを見ていましたが
「あなたはジョバンニさんでしたね。どうも今晩はありがとう。」とていねいに云いました。

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ジョバンニは何も云えずにただおじぎをしました。
「あなたのお父さんはもう帰っていますか。」博士はかたく時計をにぎったまままたききました。
「いいえ。」ジョバンニはかすかに頭をふりました。
「どうしたのかなあ。ぼくには一昨日おととい大へん元気な便たよりがあったんだが。今日あたりもう着くころなんだが。船がおくれたんだな。ジョバンニさん。あした放課后ほうかごみなさんとうちへ遊びに来てくださいね。」

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そう云いながら博士はまた川下の銀河のいっぱいにうつった方へじっと眼を送りました。ジョバンニはもういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云えずに博士の前をはなれて早くお母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと思うともう一目散いちもくさん河原かわらまちの方へ走りました。




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