ポラーノの広場ひろば
                    宮澤賢治

                        前十七等官とうかん レオーノキュースト 誌

                             宮沢賢治 訳述やくじゆつ

1
そのころわたくしはモリーオ市の博物局はくぶつきよくつとめてりました。

2
十八等官でしたから役所のなかでもずうっと下の方でしたし俸給ほうきゆうもほんのわずかでしたが、受持ちが標本ひようほん採集さいしゆうや整理で、生れ付き、好きなことでしたから、わたくしは毎日ずいぶん愉快ゆかいにはたらきました。殊にそのころ、モリーオ市では競馬場けいばじようを植物園にこしらえ直すというので、その景色のいいまわりにアカシヤを植え込んだ広い地面が、切符売場きつぷうりば信号所しんごうじよの建物のついたままわたくしどもの役所の方へまわって来たものですから、わたくしはすぐ宿直という名前で月賊げつぷで買った小さな蓄音器ちくおんきと二十枚ばかりのレコードをもってその番小屋にひとり住むことになりました。わたくしはそこの馬を置く場所に板で小さなしきいをつけて一ぴき山羊やぎを飼いました。毎朝その乳をしぼってつめたいパンをひたしてたべ、それから黒い革のかばんへすこしの書類や雑誌ざつしを入れ、くつもきれいにみがき、並木なみきのポプラの影法師かげぼうし大股おおまたにわたって市の役所へ出て行くのでした。あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森でかざられたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波、

3
またそのなかでいっしょになったたくさんのひとたち、ファゼーロとロザーロ、羊飼ひつじかいのミーロや顔の赤いこどもたち、地主のテーモ、山猫やまねこ博士のボーガント・デストゥパーゴなど、いまこの暗いおおきな石の建物のなかで考えているとみんななつかしい青いむかし風の幻燈げんとうのように思われます。

4
では、わたくしはいくつかの小さなみだしをつけながらしずかにあの年のイーハトーヴォの五月から十月までを書きつけましょう。

一、げた山羊やぎ

5
五月のしまいの日曜でした。わたくしはにぎやかな市の教会のかねの音でをさましました。もう日はよほど登って、まわりはみんなきらきらしていました。時計を見るとちょうど六時でした。わたくしはすぐチョッキだけ着て山羊を見に行きました。すると小屋のなかはしんとしてわらへこんでいるだけであのみじかい角も白いかみも見えませんでした。
「あんまりいい天気なもんだから大将ひとりででかけたな。」

6
わたくしは半分わらうように半分つぶやくようにしながら、向うの信号所から、いつも放して遊ばせる輪道りんどうの内側の野原、ポプラの中から顔を出している市はずれの白い教会の塔までぐるっと見まわしました。けれどもどこにもあの白い頭もせなかも見えていませんでした。うまやを一まわりしてみましたがやっぱりどこにも居ませんでした。
「いったい山羊やぎは馬だの犬のように前居たところや来る道をおぼえていて、そこへ戻っているということがあるのかなあ。」わたくしはひとりで考えました。さあ、そう思うと早くそれを知りたくてたまらなくなりました。けれども役所のなかとちがって競馬場には物知りの年とった書記も居なければそんなことを書いた辞書じしよもそこらにありませんでしたから、わたくしは何ということなしに輪道を半分通ってそれからこの前山羊が村の人に連れられて来たみちをそのまま野原の方へあるきだしました。

7
そこらの畑では燕麦えんばくもライ麦ももう芽をだしていましたしこれから何かくとこらしくあたらしく掘り起されているところもありました。

8
そしていつかわたくしは町から西南の方の村へ行くみちへはいってしまっていました。

9
向うからは黒い着物に白いきれをかぶった百姓のおかみさんたちが、たくさん歩いてくるようすなのです。わたくしは気がついてもう戻ってしまおうと思いました。全くの起きたままチョッキだけ着て顔もあらわず帽子ぼうしもかむらず山羊が居るかどうかもわからない広い畑のまんなかへ飛びだして来ているのです。けれどもそのときはもう戻るのも工合ぐあいが悪くなってしまっていました。向うの人たちがじき顔の見えるところまで来ているのです。わたくしは思い切って勢よく歩いて行っておじぎをして尋ねました。「こっちへ山羊が迷って来ていませんでしたでしょうか。」女の人たちはみんな立ちどまってしまいました。教会へ行くところらしくバイブルも持っていたのです。
「こっちへ山羊が一ぴき迷って来たんですが、ごらんになりませんでしたでしょうか。」

10
みんなは顔を見合せました。それから一人が答えました。
「さあ、わたくしどもはまっすぐに来ただけですから。」

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そうだ、山羊が迷って出たときに人のようにみちを歩くのではないのだな。わたくしはおじぎをしました。
「いや、ありがとうございました。」

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女たちは行ってしまいました。もう戻ろう、けれどもいま戻るとあの女の人たちを通り越して行かなければならない、まあ散歩のつもりでもすこし行こう、けれどもさっぱりたよりのない散歩だなあ、わたくしはひとりでにがわらいしました。そのときまた向うから廿五六になる若ものと十七ばかりのこどもとスコープをかついでやって来ました。もう仕方ない、みかけだけにたずねて見よう、わたくしはまたおじぎしました。
「山羊を一疋迷ってこっちへ来たのですがごらんになりませんでしたでしょうか。」
「山羊ですって。いいえ。連れてあるいてげたのですか。」
「いいえ、小屋から遁げたんです。いや、ありがとうございました。」わたくしはおじぎをしてまたあるきだしました。

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するとそのこどもがうしろで云いました。
「ああ、向うからたれか来るなあ。あれそうでないかなあ。」

14
わたくしはふりかえって指ざされた私の行くほうを見ました。
「ファゼーロだな、けれども山羊やぎかなあ。」
「山羊だよ。ああきっとあれだ。ファゼーロがいまごろ山羊なんぞ連れてあるくはずないんだから。」

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たしかにそれは山羊でした。けれどもそれは別ので売りに町へ行くのかもしれない、まああの指導標しどうひようのところまで行って見よう、わたくしはそっちへ近づいて行きました。一人のほおの赤い、チョッキだけ着た十七ばかりの子どもが何だかわたくしのらしいめすの山羊の首に帯皮おびかわをつけてはじを持ってわらいながらわたくしに近よって来ました。どうもわたくしのらしいけれども何と云おうと思いながらわたくしは立ちどまりました。すると子どもも立ちどまってわたくしにおじぎしました。
「この山羊はおまえんだろう。」
「そうらしいねえ。」
「ぼく出てきたらたった一ぴきで迷っていたんだ。」
「山羊もやっぱり犬のように一ぺんあるいた道をおぼえているのかねえ。」
「おぼえてるとも。じゃ。やるよ。」
「ああほんとうにありがとう。わたしはねえ、顔も洗わないで探しに来たんだ。」
「そんなに遠くから来たの。」
「ああわたしは競馬場に居るからねえ。」
「あすこから?」子どもは山羊の首から帯皮をとりながら畑の向うでかげろうにぎらぎらゆれているやっと青みがかったアカシヤの列を見ました。
「ずいぶん遠くまで来たもんだねえ。」
「ああ、じゃ、僕こっちへ行くんだから。さよなら。」
「あ、ちょっと待って。ぼくなにかあげたいんだけれどもなんにもなくてねえ。」「いいや、ぼくなんにもいらないんだ。山羊を連れてくるのは面白かった。」
「だけどねぇ、それではわたしが気が済まないんだよ。そうだ、あなたはくさりはいらないの。」わたくしは時計の鎖ならなくても済むと思いながら銀の鎖をはずしました。
「いいや。」
磁石じしやくもついているよ。」

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すると子どもは顔をぱっとほてらせましたがまたあたりまえになって
「だめだ、磁石じゃ探せないから。」とぼんやり云いました。
「磁石で探せないって?」私はびっくりしてたずねました。
「ああ。」子どもは何か心もちのなかにかくしていたことを見られたというように少しあわてました。
「何を探すっていうの?」子どもはしばらくちゅうちょしていましたがとうとう思い切ったらしく云いました。
「ポラーノの広場。」
「ポラーノの広場? はてな、聞いたことがあるようだなあ。何だったろうねえ、ポラーノの広場。」
「昔ばなしなんだけれどもこのごろまたあるんだ。」
「ああそうだ。わたしも小さいとき何べんも聞いた。野はらのまんなかの祭のあるとこだろう。あのつめくさの花の番号を数えて行くというのだろう。」
「ああ、それは昔ばなしなんだ。けれども、どうもこのごろもあるらしいんだよ。」
「どうして。」
「だってぼくたちが夜野原へ出ているとどこかでそんな音がするんだもの。」
「音のする方へ行ったらいいんでないか。」
「みんなで何べんも行ったけれどもわからなくなるんだよ。」
「だって、聞えるくらいならそんなに遠いはずはないねえ。」
「いいや、イーハトーヴォの野原は広いんだよ。きりのある日ならミーロだって迷うよ。」
「そうさねえ、だけど地図もあるからねえ。」
「野原の地図ができてるの。」
「ああ、きっと四枚ぐらいにまたがってるねえ。」
「その地図で見ると路でも林でもみんなわかるの。」
「いくらか変っているかもしれないがまあ大体はわかるだろう。じゃ、お礼にその地図を買って送ってあげようか。」
「うん、」子どもは顔を赤くして云いました。
「きみはファゼーロって云うんだね。宛名あてなをどう書いたらいいかねえ。」
「ぼく、ひまを見付けておまえんうちへ行くよ。」
「ひまって今日でもいいよ。」
「ぼく仕事があるんだ。」
「今日は日曜じゃないか。」
「いいえ、ぼくには日曜はないんだ。」
「どうして。」
「だって仕事をしなけぁ、」
「仕事ってきみのかい。」
旦那だんなんさ。みんなもう行ってあぜへはいってるんだ。小麦の草をとっているよ。」
「じゃきみは主人のとこにやとわれているんだね。」
「ああ、」
「お父さんたちは。」
「ない。」
「兄さんかたれかは」
「姉さんがいる。」
「どこに、」
「やっぱり旦那だんなんとこに。」
「そうかねえ、」
「だけど姉さんは山猫やまねこ博士のとこへ行くかも知れないよ。」
「何だい。その山猫博士というのは。」
「あだ名なんだ。ほんとうはデストゥパーゴって云うんだ。」
「デストゥパーゴ? ボー、ガント、デストゥパーゴかい。県の議員の」
「ええ。」
「あいつは悪いやつだぜ。あいつのうちがこっちの方にあるのかい。」
「ああぼくの旦那だんなのうちから見え……」
「おい、ここら何をぐずぐずしてるんだ。」うしろで大きな声がしました。見ると一人の赤い帽子ぼうしをかぶった年老としよりの頑丈がんじようそうな百姓が革むちをもって怒って立っていました。
「もう一くぎりも働いたかと思って来て見るとまだこんなとこに立ってしゃべくってやがる。早く仕事へ行け。」
「はい、じゃさよなら。」
「ああさよなら。ぼくは役所からいつでも五時半には帰っているからね。」
「ええ、」ファゼーロは水壺みずつぼとホーをもって急いで向うの路へはいって行きました。百姓はこんどはわたくしに云いました。
「あなたはどこのお方だか知らないが、これからわしの仕事にいらないお世話をして貰いたくないもんですな。」
「いや、わたしはね、山羊やぎげられてそれをたずねて来たらあの子どもさんが連れて来ていたもんだからお礼を云っていたんです。」
「いや、結構けつこうですよ。山羊というやつはどうも足があって歩くんでね。やいファゼーロ、かけて行け、馬鹿ばかかけて行けったら。」百姓は顔をまっ赤にして手をあげて革むちをパチッと鳴らしました。
「人を使うのに革むちを鳴らすなんて乱暴じゃないですか。」

17
百姓はわざと顔を前につき出して云いました。
「このむちですかい。あなたはこのむちのことをおつしやったんですか。この鞭はねえ、人を使う鞭ではありませんよ。馬を追う鞭ですよ。あっちへ馬が四疋も行ってますからねえ。そらねこんなふうに。」百姓はわたくしの顔の前でパチッパチッとはげしくむちを鳴らしました。わたくしはさぁっと血が頭にのぼるのを感じました。けれどもまたいま争うときでないと考えて山羊の方を見ました。山羊はあちこち草をたべながら向うに行っていました。百姓はファゼーロの行った方へ行きわたくしも山羊の方へ歩きだしました。山羊に追いついてから、ふりかえって見ますと畑いちめん紺いろの地平線までにぎらぎらのかげろうで百姓の赤い頭巾ずきんもみんなごちゃごちゃにゆれていました。その向うの一そうはげしいかげろうの中でピカッと白くひかる農具と黒い影法師かげぼうしのようにあるいている馬とファゼーロかそれともほかのこどもかしきりに手をふって馬をうごかしているのをわたくしは見ました。

二、つめくさのあかり

18
それからちょうど十日ばかりたって、夕方、わたくしが役所から帰って両手でカフスをはずしていましたら、いきなりあのファゼーロが戸口から顔を出しました。そしてわたくしがまだびっくりしているうちに
「とうとう来たよ、今晩は」と云いました。
「ああ、先頃せんころはありがとう。地図はちゃんと仕度したくしておいたよ。この前の音は今でもするの。」
「するとも、昨夜ゆうべなんかとてもひどいんだ。今夜はもうぼくどうしても探そうとおもって羊飼いのミーロと二人で出て来たんだ。」
「うちの方は大丈夫かい。」
「うん、」ファゼーロは何だか少しあいまいに返事しました。
「きみの旦那だんなはなかなかこわい人だねえ、何て云うんだ。」
「テーモだよ。」
「テーモ、やっぱし何だか聞いたような名だなあ。」
「聞いたかも知れない。あちこち役所へ果物だの野菜だの納めているんだから。」
「そうかねえ。とにかく地図はこれだよ。」わたくしは戸口に買って置いた地図をひろげました。
「ミーロも呼んでもいいかい。」
たれか来てるのか。いいとも。」
「ミーロ、おいで、地図を見よう。」

19
すると山羊小屋の中からファゼーロよりも三つばかり年上のちゃんときゃはんをはいてぼろぼろになった青い皮の上着を着た顔いろのいいわか者が出てきてわたくしにおじぎしました。
「おや、ぼくは地図をよくわからないなあ、どっちが西だろう。」
「上の方が北だよ。そう置いてごらん。」

20
ファゼーロはおもての景色と合せて地図を床に置きました。
「そら、こっちが東でこっちが西さ。いまぼくらのいるのはここだよ。この円くなった競馬場のここのとこさ。」
乾溜かんりゆう工場はどれだろう。」ミーロが云いました。
乾溜かんりゆう工場って、この地図にはないね、こっちかしら。」わたくしは別のをひろげました。
「ないなあ、いつころからあるんだい。」
「去年からだよ。」
「それじゃないんだ。この地図はもっと前に測量したんだから。その工場はどんなとこにあるの。」
「ムラードの森のはずれだよ。」
「ああ、これかしら、何の木だい、ならかばだろう。唐檜とうひやサイプレスではないね。」
ならと樺だよ。ああこれか。ぼくはねえ、どうも昨夜ゆうべの音はここから聞えたと思うんだ。」
「行こう行こう、行って見よう。」ファゼーロはもう地図をもってはねあがりました。
「わたしも行っていいかい。」
「いいともぼくそう云いたくていたんだ。」
「じゃわたしも行こう。ちょっと待って。」わたくしは大急ぎで仕度をしました。どうせ月は出るけれども地図が見えないといけないと思ってガラスばこのちょうちんも持ちました。
「さあ行こう。」わたくしはばたんと戸をしめてファゼーロとミーロのあとに立ちました。

21
日はもう落ちて空は青く古い池のようになっていました。

22
そこらの草もアカシヤの木も一日のなかでいちばん青く見えるときでした。
「ポラーノの広場へ行けば何があるって云うの?」

23
ミーロについて行きながらわたくしはファゼーロにたずねました。
「オーケストラでもお酒でも何でもあるって。ぼくお酒なんかみたくはないけれどみんなを連れて行きたいんだよ。」
「そうだって云ったねえ、わたくしも小さいときそんなこと聞いたよ。」
「それに第一にね、そこへ行くとたれでも上手に歌えるようになるって。」「そうそうそう云った。だけどそんなことがいまでもほんとうにあるかねえ。」
「だって聞えるんだもの。ぼくは何もいらないけれども上手にうたいたいんだよ。ねえ。ミーロだってそうだろう。」
「うん。」ミーロもうなずきました。元来ミーロなんかよほど歌がうまいのだろうとわたくしは思いました。

24
わたくしどもはもう競馬場のまん中を横切よこぎってしまってまっすぐに野原へ行く小さなみちへかかっていました。ふりかえってみるとわたくしの家がかなり小さく黄いろにひかっていました。
「ぼくは小さいときはいつでもいまごろ、野原へ遊びに出た。」ファゼーロが云いました。
「そうかねえ、」
「するとお母さんが行っておいで、ふくろうにだまされないようにおしって云うんだ。」
「何て云うって。」
「お母さんがね、云っておいで、ふくろうにだまされないようにおしって云うんだよ。」
「ふくろうに?」
「うん、ふくろうにさ。それはね、僕もっと小さいとき、それはもうこんなに小さいときなんだ、野原に出たろう。すると遠くで、誰だか食べた、たれだか食べた、というものがあったんだ。それがふくろうだったのよ。僕ばかな小さいときだから、ずんずん行ったんだ。そして林の中へはいってみちがわからなくなって泣いた。それからいつでもお母さんそう云ったんだ。」
「お母さんはいまどこにいるの。」わたくしはこの前のことを思いだしながらそっとたずねました。
「居ない。」ファゼーロはかなしそうに云いました。
「この前きみは姉さんがデストゥパーゴのとこへ行くかもしれないって云ったねえ。」
「うん、姉さんは行きたくないんだよ。だけど旦那だんなが行けって云うんだ。」
「テーモがかい。」
「うん、旦那だんなは山猫博士がこわいんだからねえ。」
「なぜ山猫博士って云うんだ。」
「ぼくよくわからない。ミーロは知ってるの?」
「うん、」ミーロはこっちをふりむいて云いました。
「あいつは山猫をってあるいて外国へ売る商売なんだって。」
「山猫を? じゃ動物園の商売かい。」
「動物園じゃないなあ。」ミーロもわからないというふうにだまってしまいました。そのときはもう、あたりはとっぷりくらくなって西の地平線の上が古い池の水あかりのように青くひかるきりそこらの草も青黝あおぐろくかわっていました。
「おや、つめくさのあかりがついたよ。」ファゼーロが叫びました。

25
なるほど向うの黒い草むらのなかに小さな円いぼんぼりのような白いつめくさの花があっちにもこっちにもならびそこらはむっとした蜂蜜はちみつのかおりでいっぱいでした。
「あのあかりはねえ、そばでよく見るとまるで小さなの形の青じろいあかりの集りだよ。」
「そうかねえ、わたしはたった一つのあかしだと思っていた。」
「そら、ね、ごらん、そうだろう、それに番号がついてるんだよ。」

26
わたしたちはしゃがんで花を見ました。なるほど一つ一つの花にはそう思えばそうというような小さな茶いろの算用数字みたいなものが書いてありました。
「ミーロ、いくらだい。」
「一千二百五十六かな、いや一万七千五十八かなあ。」
「ぼくのは三千四百二十……六だよ。」
「そんなにはっきり書いてあるかねえ。」わたくしにはどうしてもそんなにはっきりは読むことができませんでした。けれども花のあかりはあっちにもこっちにももうそこらいっぱいでした。
「三千八百六十六、五千まで数えればいいんだからポラーノの広場はもうじきそこらなはずなんだけれども。」
「だってさっぱりきみらの云うようないい音はしないんじゃないか。」
「いまに聞こえるよ。こいつは二千五百五十六だ。」
「その数字を数えるというのはきっとだめだよ。」

27
とうとうわたくしは云いました。
「どうして?」ファゼーロもミーロもまっすぐに立ってわたくしを見ています。
「なぜって第一わたしは花にそんな数字が書いてあるのでなくてそれはこっちの目のまちがいだろうと思うんだ。もしほんとうにいまにその音が聞えてきたらまっすぐにそっちに行くのがいちばんいいだろうと思うんだ。とにかくもっとさきへ行ってみようじゃないか。ここらならわたしだって度々たびたび来ているんだから。ここらはまだあのわかれみちのまっ北ぐらいにしかなってないんだ。ムラードの森なんか、まだよっぽどあるだろう。ねえ、ミーロ君。」
「よっぽどあるとも。」
「じゃ、行こう、まあもっと行って花の番号を見てごらん。やっぱり二千とか三千とかだから。」

28
ミーロはうなずいてあるきだしました。ファゼーロもだまってついて行きました。わたくしどもはじつにいっぱいに青じろいあかりをつけて向うの方はまるで不思議な縞物しまもののように幾条いくすじにもしまになった野原をだまってどんどんあるきました。その野原のはずれのまっ黒な地平線の上では、そらがだんだんにぶいはがねのいろに変っていくつかの小さな星もうかんできましたしそこらの空気もいよいよ甘くなりました。そのうち何だかわたくしどもの影が前の方へ落ちているようなのでうしろを振り向いて見ますと、おお、はるかなモリーオの市のぼぉっとにごった灯照りのなかから十六日の青い月が奇体きたいに平べったくなって半分のぞいているのです。わたくしどもは思わず声をあげました。ファゼーロはそっちへ挨拶あいさつするように両手をあげてはねあがりました。

29
にわかにぼんやり青白い野原の向うで何かセロかバスのようなふるいがしずかに起りました。
「そら、ね、そら。」ファゼーロがわたくしの手をたたきました。わたくしもまっすぐに立って耳をすましました。音はしずかにしずかにつぶやくようにふるえています。けれどもいったいどっちの方か、わたくしはあきれてつっ立ってしまいました。もう南でも西でも北でもわたくしどもの来た方でもそう思って聞くと地面の中でも高くなったり低くなったりたのしそうにたのしそうにその音が鳴っているのです。

30
それはまた一つや二つではないようでした。消えたりもつれたり一所いつしよになったり何とも云われないのです。
「まるで昔からのはなしの通りだねえ。わたしはもうわからなくなってしまった。」
「番号はここらもやっぱり二千三百ぐらいだよ。」ファゼーロが月が出て一そう明るくなったつめくさの灯をしらべて云いました。
「番号なんかあてにならないよ。」わたくしもかがみました。そのときわたくしは一つの花のあかしからも一つの花へ移って行く黒い小さなはちを見ました。
「ああ、蜂が、ごらん、さっきからぶんぶんふるえているのは、月が出たので蜂が働きだしたのだよ。ごらん、もう野原いっぱい蜂がいるんだ。」これでわかったろうとわたくしは思いましたがミーロもファゼーロもだまってしまってなかなか承知しませんでした。
「ねえ蜂だろう。だからあんなに野原中どこから来るか知れなかったんだよ。」

31
ミーロがやっと云いました。
「そうでないよ。蜂ならぼくはずっと前から知っているんだ。けれども昨夜ゆうべはもっとはっきり人の笑い声などまで聞えたんだ。」
「人の笑い声、太い声でかい。」
「いいや。」
「そうかねえ。」わたくしはまたわからなくなってうでを組んで立ちあがってしまいました。

32
そのときでした。野原のずうっと西北の方でぼぉとたしかにトローンボーンかバスの音がきこえました。わたくしはきっとそっちを向きました。するとまた西の方でもきこえるのです。わたくしはおもわず身ぶるいしました。野原ぜんたいにたれ魔術まじゆつでもかけているかそうでなければ昔からの云い伝い通りひるには何もない野原のまんなかに不思議に楽しいポラーノの広場ができるのか、わたくしはかえってひるの間役所で標本ひようほんに札をつけたり書類を所長のところへ持って行ったりしていたことが別の世界のことのように思われてきました。
「やっぱり何かあるのかねえ。」
「あるよ。だってまだこれどこでないんだもの。」
「こんなに方角がわからないとすればやっぱり昔の伝説のようにあかしの番号を読んで行かなければならないんだが、ぜんたい、いくらまで数えて行けばポラーノの広場に着くって?」
「五千だよ。」
「五千? ここはいくらと云ったねえ。」
「三千ぐらいだよ。」
「じゃ、北へ行けば数がふえるか西へ行けばふえるかしらべて見ようか。」その時でした。
「ハッハッハッ。お前たちもポラーノの広場へ行きてえのか。」うしろで大きな声で笑うものがいました。
「何だい、山猫やまねこの馬車別当べつとうめ。」ミーロが云いました。
「三人でいまわって、あかりの数を数えてるんだな。はっはっはっ、」その足のまがった片眼のじいさんは上着のポケットに手を入れたまままた高くわらいました。
「数えてるさ、そんならじいさんは知ってるかい。いまでもポラーノの広場はあるかい。」ファゼーロがきました。
「あるさ。あるにはあるけれどもお前らのたずねているような、這いつくばって花の数を数えて行くようなそんなポラーノの広場はねえよ。」
「そんならどんなんがあるんだい。」
「もっといいのがあるよ。」
「どんなんだい。」
「まあお前たちには用がなかろうぜ。」

33
じいさんはのどをくびっと鳴らしました。
「じいさんはしじゅう行くかい。」
「行かねえ訳でもねえよ、いいとこだからなあ。」
「じいさんは今夜はってるねえ。」
「ああ上等の藁酒わらざけをやったからな。」じいさんはまたのどをくびっと鳴らしました。
「ぼくたちは行けないだろうかねえ。」
「行けねえよ。あっいけねえ、とうとう悪魔あくまにやられた。」じいさんは額を押えてよろよろしました。かぶとむしが飛んで来てぶっつかったようすでした。ミーロが云いました。
「じいさん、ポラーノの広場の方角を教えてくれたら、おいらぁ、じいさんと悪魔の歌をうたってきかせるぜ。」
縁起えんぎでもねえ、まあもっと這いまわって見ねえ。」じいさんはぶりぶり怒ってぐんぐんつめくさの上をわたって南の方へ行ってしまいました。
「じいさん。お待ちよ。また馬を冷しに連れてってやるからさ。」ファゼーロが叫びましたがじいさんはどんどん行ってしまいました。ミーロはしばらくだまっていましたがとうとうこらえきれないらしく「おいおれ歌うからな」と云いだしました。

34
ファゼーロはそれどころではないようすでしたが、わたくしは前からミーロは歌がうまいだろうと思っていたので手をたたきました。ミーロは上着やシャツの上のぼたんをはずして息をすこし吸いました。

35
 「いのししむしゃのかぶとむし

36
  つきのあかりもつめくさの

37
  ともすあかりも眼に入らず

38
  めくらめっぽに飛んで来て

39
  山猫馬丁やまねこばていにつきあたり

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  あわてて ひょろひょろ

41
  落ちるをやっとふみとまり

42
  いそいでかぶとをしめなおし

43
  月のあかりもつめくさの

44
  ともすあかりも目に入らず

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  飛んでもない方に飛んで行く。」

46
ところがそのじいさんの行った方から細い高い声で
「ファゼーロ、ファゼーロ。」と呼んでいるようすです。
「ああ、姉さん。いま行くよ。」ファゼーロがそっちへ向いて高く叫びました。向うの声はやみました。
「だめだなあ、きっと旦那だんなが呼んでるんだ。早く森まで行ってみればよかったねえ。」

47
ミーロがにわかにいきおいがついて早口に云いました。
「大丈夫だよ。おれはね、どうもあの馬車別当ばしやべつとうだの町の乾物屋かんぶつやのおやじだのあやしいと思っていたんだ。このごろはいつでもっているんだ。きっとあいつらがポラーノの広場を知ってるぜ。それにおれは野原でおかしな風に枯草かれくさを積んだ荷馬車に何べんもあってるんだ。ファゼーロ、お前ね、なんにも知らないふりして今夜はうちへ帰って寝ろ。おれきっと五六日のうちにポラーノの広場をさがすから。」
「そうかい。ぼくにはよくわからないなあ。」そのときまた声がしました。
「ファゼーロ、おいで。お使いに町へ行くんだって。」
「ああいま行くよ。ぼくは旦那のとこへまっすぐに行くんだが、おまえはひとりで競馬場へ帰れるかい。」
「帰れるとも、ここらはひるならたびたび来るとこなんだ。じゃ、地図はあげるよ。」
「うん、ミーロへやってこう。ぼくひるは野原へ来るひまがないんだから。」

48
そのとき向うのつめくさの花と月のあかりのなかにうつくしい娘が立っていました。

49
ファゼーロが云いました。
「姉さん、この人だよ。ぼく地図をもらったよ。」その娘はこっちへ出てこないでだまっておじぎをしました。わたくしもだまっておじぎをしました。
「じゃ、さよなら。早く行かなくちゃ」ファゼーロは走りだしました。

50
ロザーロはもいちどわたくしどもに挨拶あいさつしてそのあとから急いで行きました。ミーロはだまって北の方を向いて耳にたなごころをあてていました。わたくしはポラーノの広場というのはこういう場所をそのまま云うのだ、馬車別当だのミーロだのまだ夢からさめないんだと思いながら云いました。
「ミーロ、おまえの歌は上手だよ。わざわざポラーノの広場まで習いに行かなくてもいいや。じゃさよなら。」

51
ミーロはていねいにおじぎをしました。わたくしはそしてそのうつくしい野原を胸いっぱいに蜂蜜はちみつのかおりを吸いながらわたくしの家の方へ帰ってきました。

三、ポラーノの広場ひろば

52
それからちょうど五日目の火曜日の夕方でした。その日はわたくしは役所で死んだ北極熊ほっきょくぐま剥製はくせいにするかどうかについてひどく仲間と議論をして大へんむしゃくしゃしていましたから少し気を直すつもりで酒石酸しゆせきさんをつめたい水に入れてんでいましたらずうっと遠くですきとおった口笛が聞えました。その調子はたしかにあのファゼーロの山羊やぎをつれて来たり野原を急いで行ったりする気持そっくりなのでわたくしは思わず、とうとう来たな、とつぶやきました。

53
やっぱりファゼーロでした、まだわたくしがその酒石酸しゆせきさんのコップを呑みほさないうちにもう顔をまっ赤にして戸口に立っていました。
「わかったよ、とうとう。僕ゆうべ行くみちへすっかり方角のしるしをつけて置いた。地図で見てもわかるんだ。今夜ならもう間違なくポラーノの広場へ行ける。ミーロはひるのうちから行っていてぼくらをむかえに出る約束なんだ。ぼく行って見てほんとうだったらあしたはもうみんなつれて行くんだ。」

54
わたくしもり込まれて胸をおどらせました。
「そうかい。わたしも行こう。どんななりして行ったらいいかねえ。どんな人が来てるだろうねえ。」
「どんななりでもいいじゃないか。早く行こう。来てる人がたれだかぼくもわからないんだ。」

55
わたくしは大急ぎでネクタイを結んで新らしい夏帽子ぼうしかぶって外へ出ました。わたくしどもがこの前別れたところへ来たころは丁度ちようど夕方の青いあかりがつめくさにぼんやり注いでいて、その葉のつめあとのような紋ももう見えなくなりかかったときでした。ファゼーロは爪立てをしてしばらくあちこち見まわしていましたが、にわかに向うへ走って行きました。ファゼーロはしばらくってぴたりと止まりました。
「あ、こいつだ、そらね、」見るとそこにはファゼーロが作ったらしく一本の棒を立ててその上にボール紙で矢の形を作って北西の方を指すようにしてありました。
「さあ、こっちへ行くんだ。向うに小さなかばの木が二本あるだろう。あすこが次の目標なんだよ。暗くならないうちに早く行こう。」ファゼーロはどんどん走り出しました。

56
ほんとうにそこらではもうつめくさのあかりがつきはじめていました。わたくしもまたファゼーロのあとについて走りました。
「早く行こう、早く行こう、山猫やまねこの馬車別当なんかに見付かっちゃうるさいや。」

57
ファゼーロはふりかえってそんなことを云いながら走りつづけました。けれどもさっき見た二本の樺の木まではなかなかすぐではありませんでした。

58
ファゼーロはよく走りました。

59
わたくしもずいぶん本気に走りました。

60
やっとそこに着いてファゼーロが立ちどまったときは、あたりはもうすっかり夜になっていて樺の木もまっ黒にそらにすかし出されていました。

61
つめくさの花はちょうどその反対に明るくまるで本統ほんとう石英せきえいランプでできているようでした。

62
そしてよく見ますとこの前の晩みんなで云ったように一一のあかしは小さな白いのかたちのあかしから出来てそれが実に立派にかがやいてりました。処々ところどころにはせいの高い赤いあかりもりんとともりその柄の所には緑いろのしゃんとした葉もついていたのです。ファゼーロはすばやくその樺の木にのぼっていました。そしてしばらく野原の西の方をながめていましたがいきなりぶらさがってはねおりて来ました。
「次のしるしはもう見えないんだ。けれども広場はちょうどここからまっすぐ西になっているはずだからあの雲の少し明るいところを目あてにして歩いて行こう。もうそんなに遠くはないんだから。」

63
わたくしどもはまたあるきだしました。にわかにどこからか甲虫かぶとむしの鋼のはねがりいんりいんと空中に張るような音がたくさん聞えてきました。

64
その音にまじってたしかに別の楽器や人のがやがや云う声が時々ちらっときこえてまたわからなくなりました。

65
しばらく行ってファゼーロがいきなり立ちどまってわたくしの腕をつかみながら西の野原のはてをしました。わたくしもそっちをすかして見てよろよろして眼をこすりました。そこには何の木か七八本の木がじぶんのからだからひとりで光でも出すように青くかがやいてそこらの空もぼんやり明るくなっているのでした。
「ファゼーロかい。」いきなり向うから声がしました。
「ああ、来たよ。やっているかい。」
「やってるよ。とてもにぎやかなんだ。山猫やまねこ博士も来ているようだぜ。」
「山猫博士?」ファゼーロはぎくっとしたようすでした。
「けれどもいっしょに行こう。ポラーノの広場はたれだって見附みつけた人は行っていいんだから。」
「よし行こう。」ファゼーロははっきり云いました。わたくしどもはそのあかりをめあてにあるいて行きました。ミーロもファゼーロも何か大へん心配なようでした。さっぱり物も云わなくなってしまったのです。そうなるとこんどはわたくしが元気がついて来ました。一体昔ばなしの通りのことが本統にあるのだろうか、それとも何かほかのことだろうか。山猫博士がここへ来て何をしているのだろうか。もうどうしても行って見たくてたまらなくなりました。ことにその日はわたくしはまだ俸給ほうきゆうの残りを半分以上もっていましたしもしお金を払わなければならないとしてもファゼーロとミーロにご馳走ちそうするぐらい大丈夫だと考えたのです。
「いいよ、こんどはね、わたしについて来るんだよ。山猫博士なんか少しもこわいことはないんだから。」

66
わたくしはもうまっさきに立ってどんどん急ぎました。甲虫かぶとむしはねの音はいよいよ高くなり青い木はその一つの一つの枝まではっきり見えて来ました。木の下では白いシャツや黒い影やみんながちらちら行ったり来たりしています。誰かの片手をあげて何か云っているのも見えました。

67
いよいよ近くなってわたくしはこれこそはもうほんもののポラーノの広場だと思ってしまいました。さっきの青いのは可成かなり大きなはんの木でしたがそのこずえからはたくさんのモールが張られてその葉まできらきらひかりながらゆれていました。その上にはいろいろなちょうが列になってぐるぐるぐるぐるをかいていたのです。

68
うつくしい夏のそらには銀河がいまわたくしどもの来た方からだんだんそっちへまわりかけて南のまっくろな地平線の上のあたりではぼんやり白く爆発ばくはつしたようになっていました。つめくさのかおりやら何かさまざまの果物のかおり、みんなの笑い声、そのうちにとうとうみんなは組になっておどりだしました。七八人のようではありましたがたしかにもうほんもののオーケストラが愉快ゆかいそうなワルツをやりはじめました。一まわり踊りがすむとみんなはばらばらになってコップをとりました。そしてわあわあ叫びながらみほしています。その叫びは気のせいかデストゥパーゴ万歳ばんざいというようにもきこえました。
「あれが山猫博士だよ。」

69
ファゼーロが向うのテーブルにひとり座ってがぶがぶ酒をんでいる黄いろのしまのシャツと赤皮の上着を着た肩はばのひろい男を指さしました。

70
たれか六七人コンフェットウやひもを投げましたのでそれは雪のように花のようにきらきら光りながらそこらに降りました。

71
わたくしどもはもう広場の前まで来て立ちどまりました。

72
ちょうどそのときデストゥパーゴがコップをもって立ちあがりました。
「おいおい給仕、なぜおれには酒をがんか。」

73
すると白い服を着た給仕きゆうじ周章あわてて走り寄りました。
「はいはい相済あいすみません。座っておいでだったもんですからつい。」
「座っておいでになっても立っておいでになっても我輩わがはいは我輩じゃないか。おっと、よろしい。諸君しよくんは我輩のために乾杯かんぱいしようというんだな。よしよし、ブ、ブ、ブロージット。」

74
そこでみんなはみほしました。

75
わたくしはおくせてしまってもう帰ろうかとも思いましたがさっきファゼーロたちにあんなことを云ったものですから立っていることもげることもできませんでした。どうなるかなるようになれと思い切って二人をつれて帽子をとりながらあかりの中へはいりました。するとみんなは一ぺんにさわぎをやめてげんそうな顔つきでわたくしどもを見ました。それからデストゥパーゴの方を見ました。

76
するとデストゥパーゴはちょっと首をまげて考えました。どうもわたくしのことを見たことはあるが考え出せないという風でした。するとそばへ一人の夏フロックコートを着た男が行って何か耳うちしました。デストゥパーゴは不機嫌ふきげんそうな一べつをわたくしに与えてから仕方なそうにうなずきました。

77
するとやはりフロックを着てテーモが来ていました。そのテーモが柄のついたガラスのさかずきを三つもって来て、だまってわたくしからミーロ、ファゼーロと渡しました。ファゼーロに渡しながらだまってにらみつけました。ファゼーロはたじたじ後退あとずさりしました。給仕がそばからレッテルのない大きなびんからいままでみんなの呑んでいた酒を注ごうとしました。わたくしはそこで云いました。
「いや、わたしたちはね、酒はまないんだから炭酸水たんさんすいでもおくれ。」
「炭酸水はありません。」給仕が云いました。
「そんならただの水をおくれ。」わたくしは云いました。どういうわけかみんなしいんとして穴の明くほどわたくしどものことばかり見ています。わたくしも少し照れてしまいました。
「いや、デストゥパーゴさまは人に水をごちそうはなさいませんよ。」テーモが云いました。
「ごちそうになろうというんでないんです。野原のまんなかでつめくさのあかりを数えて来たポラーノの広場で、わたくしはかわいて水が呑みたいのです。」

78
もう行きがかりで仕方ないと私は思ってはっきり云いました。
「つめくさのあかり、わっはっは。」テーモはわらいだしました。デストゥパーゴもわらいました。みんなもそのあとについてわらいました。「ポラーノの広場もな、お気の毒だがデストゥパーゴさまのもんだよ。」テーモがしずかに云いました。そのとき山猫やまねこ博士が云いました。
「よし、よし、まあすきなら水をやっておけ。しかしどうも水を呑むやつらが来るとポラーノの広場も少ししらっぱっくれるね。」
「はい。」テーモはおじぎをしてそれからそっとファゼーロに云いました。
「ファゼーロ、何だって出て来たんだ。早く失せろ。帰ったら立てないくらい引っぱたくからそう思え。」

79
ファゼーロはまた後退あとずさりしました。
「その子どもは何だ。」デストゥパーゴがききました。
「ロザーロの弟でございます。」テーモがおじぎをして答えました。するとデストゥパーゴは返事をしないで向うを向いてしまいました。そのとき楽隊が何か民謡風みんようふうのものをやりはじめました。みんなはまた輪になって踊りはじめようとしました。するとデストゥパーゴが
「おいおいそいつでなしにあの〔数文字分空白〕というやつをやってもらいたいね。」

80
すると楽隊のセロを持った人が
「あの曲はいま譜がありませんので。」

81
するとデストゥパーゴは、もうよほど酔っていましたが
「や、れ、やれ、やれと云ったらやらんか。」と云いました。

82
楽隊は仕方なくみんな同じ譜で〔数文字分空白〕をやりはじめました。

83
みんなも仕方なく踊りはじめました。するとデストゥパーゴも踊りだしました。それがみんなといっしょに踊るのでなくてわざとみんなの邪魔じやまをするようにうごきまわるのです。

84
みんなはあきれてだんだんやめてぐるっとデストゥパーゴのまわりに立ってしまいました。するとデストゥパーゴはたった一人でふざけて踊りはじめました。しまいにはみんなの前を踏むようなかたちをして行ったりいきなり喧嘩けんかでも吹っかけるときのようにはねあがったりみんなはそのたんびにざわざわげるようになりました。さっきの夏フロックを着た紳士しんしが心配そうにもみ手をしながら何か云おうとするのですがデストゥパーゴはそれさえおどして引っこませてしまいました。楽隊はしばらくしかたなくやっていましたがとうとう呆れてやめてしまいました。するとデストゥパーゴもつかれたように椅子いすに座って「おい、げ。」と云いながらまたつづけざまに二杯ひっかけました。するとミーロの仲間らしいものが二人で出て来てミーロに云いました。
「おいミーロ、お前もせっかく来たんだから一つうたって聞かしてんな。」「みんなさっきからうたったり踊ったりしてつかれてるんだから。」

85
ミーロは「だめだよ、」と云ってその手をふりはらいましたが実は、はじめから歌いたくて来たのですから、ことに楽隊の人たちが歌うなら伴奏ばんそうしようというように身構みがまえしたので、ミーロは顔いろがすっかり薔薇ばらいろになってしまって眼もひかり息もせわしくなってしまいました。

86
わたくしも思わず、やれ、やれ、立派にやるんだと云いました。するとミーロはとうとう決心したようにいきなり咽喉掻のどかきはだけてはんの木の下の空箱からばこの上に立ってしまいました。
「何をやりましょう。」セロの人がわらってききました。
「フローゼントリーをやってください。」
「フローゼントリー、譜もないしなあ、古い歌だなあ。」楽員たちはわらって顔を見合せてしばらく相談していましたが
「そいじゃね、クラリネットの人しか知ってませんからクラリネットとね、それからかねで調子だけとりますから、それでよかったら二節目からついて歌ってください。」

87
みんなはパチパチ手をたたきました。テーモも首をまげて聞いてやろうというようにしました。

88
楽隊がやりました。ミーロは歌いだしました。

89
 「けさの六時ころ    ワルトラワーラの

90
  とうげをわたしが     越えようとしたら

91
  朝霧あさぎりがそのときに   ちょうど消えかけて

92
  一本のくりの木は    後光ごこうをだしていた

93
  わたしはいただきの  石にこしかけて

94
  朝めしかたぱんを    かじりはじめたら

95
  その栗の木がにわかに ゆすれだして

96
  降りて来たのは    二疋の電気栗鼠りす

97
  わたしは急いで……」
「おいおい間違っちゃいかんよ。」山猫やまねこ博士がいきなりどなりだしました。
「何だって、」ミーロはあっけにとられて云いました。
「今朝ワルトラワラの峠に電気栗鼠など居たはずはない、それはいたちの間違いだろう。もっとよく考えてうたってもらいたいね。」
「そんなことどうだっていいんだい。」

98
ミーロは怒ってだんを下りました。すると山猫博士が立ちあがりました。
「今度は我輩わがはいがうたって見せよう。こら楽隊、In the good summer time をやれ、」

99
楽隊の人たちは何べんもこの節をやったと見えてすぐいっしょにはじめました。山猫博士は案外うまく歌いだしました。

100
「つめくさの花の 咲く晩に

101
 ポランの広場の 夏まつり

102
 ポランの広場の 夏まつり

103
 酒をまずに  水を呑む

104
 そんなやつらが でかけて来ると

105
 ポランの広場も 朝になる

106
 ポランの広場も 白ぱっくれる」

107
ファゼーロは泣きだしそうになってだまってきいていましたが、歌がすむとわたくしがつかまえるひまもなく壇にかけのぼってしまいました。
「ぼくもうたいます。いまのふしです。」

108
楽隊はまたはじめました。山猫やまねこ博士は、「いや、これはめずらしいことになったぞ。」と云いながら又大きなコップで二つばかり引っかけました。ファゼーロは力いっぱいうたいだしました。

109
 「つめくさの花の  かおる夜は

110
  ポランの広場の  夏まつり

111
  ポランの広場の  夏まつり

112
  酒くせのわるい  山猫が

113
  黄いろのシャツで 出かけていると

114
  ポランの広場に  雨がふる

115
  ポランの広場に  雨がふる」

116
デストゥパーゴがもう憤然ふんぜんとして立ちあがりました。
「何だ失敬しつけい決闘けつとうをしろ決闘を。」

117
わたくしも思わず立ってファゼーロをうしろにかばいました。
馬鹿ばかを云え、貴さまがさきに悪口を言って置いて。こんな子供に決闘だなんてことがあるもんか。おれが相手になってやろう。」
「へん、貴さまの出る幕じゃない。引っ込んでいろ。こいつが我輩わがはい名誉めいよある県会議員を侮辱ぶじよくした。だから我輩はこいつへ決闘けつとうを申し込んだのだ。」
「いや、貴さまがおれの悪口を言ったのだ、おれはきさまに決闘を申し込むのだ、全体きさまはさっきから見ているとさもきさま一人の野原のように威張いばり返っている。さあ、ピストルか刀かどっちかを撰べ。」

118
するとデストゥパーゴはいきなり酒をがぶっとみました。ああファゼーロで大丈夫だ。こいつはよほど弱いんだ。わたくしは心のなかでそっとわらいました。

119
はたしてデストゥパーゴは空っぽな声でどなりだしました。
だまれっ。きさまは決闘の法式も知らんな。」
「よし。酒をまなけぁ物を言えないような、そんな卑怯ひきょうなやつの相手は子どもでたくさんだ。おいファゼーロしっかりやれ。こんなやつは野原の松毛虫だ。おれがうしろで見ているからめちゃくちゃにぶんなぐってしまえ。」
「よし、おい、誰かおれの介添かいぞえ人になれ。」そのときさっきの夏フロックが出てきました。
「まあ、まあ、あんな子供をあなたが相手になさることはありません。今夜は大切の場合なのですからどうか。」

120
すると山猫やまねこ博士はいきなりその男を撲りつけました。
「やかましい。そんなことはわかっている。黙ってれ。おい誰かおれの介添かいぞえをしろ。テーモ。」
「はい。どうぞ、おゆるしを。あとでわたくしがよく仕置きいたします。」
「やかましい。おい、クローノ、きさまやれ。」

121
クローノと呼ばれた百姓らしい男が
「さあ、おいらじゃあね、」と云ってみんなのうしろへ引っ込んでしまいました。
臆病者おくびようもの、おいポーショ、きさまやれ。」
「おいらぁとてもだめだよ。」

122
デストゥパーゴはいよいよ怒ってしまいました。
「よし介添人かいぞえにんなどいらない。さあ仕度したくしろ。」
「きさまも早く仕度しろ。」わたくしはファゼーロに上着をぬがせながら云いました。
「剣でも大砲でもすきなものを持ってこいよ。」
「どっちでもきさまのすきな方にしろ。」どこにそんなものがあるんだい。と思いながらわたくしは云いました。
「よし、おい給仕、剣を二本持ってこい。」

123
すると給仕が待っていたように云いました。
「こんな野原で剣はございません。ナイフでいけませんか。」

124
するとデストゥパーゴは安心したようにしながら
「よし、持ってこい。」と声だけ高く云いました。
承知しようちしました。」給仕が食事につかうナイフを二本持って来てうやうやしくデストゥパーゴにわたしました。まるで芝居しばいだとわたくしは思いました。ところがデストゥパーゴはていねいにその両方の刃をしらべているのです。それから
「さあどっちでもいい方をとれ。」といって二本ともファゼーロに渡しました。ファゼーロはすぐその一本をデストゥパーゴの足もとに投げて返しました。デストゥパーゴは拾いました。

125
そこでわたくしはまん中に出ました。
「いいか。決闘の法式にしたがうぞ。組打ちはならんぞ。一、二、三、よし。」

126
すると何のことはない、デストゥパーゴはそのみじかいナイフを剣のように持って一生けんめいファゼーロの胸をつきながら後退あとずさりしましたしファゼーロは短刀をもつように柄をにぎってデストゥパーゴの手首をねらいましたので、三度ばかりぐるぐるまわってからデストゥパーゴはいきなりナイフを落して、左の手で右の手くびを押さえてしまいました。
「おい、おい、やられたよ。たれ沃度ヨードホルムをもっていないか。過酸化水素はないか。やられた、やられた。」そしてべったり椅子いすへ座ってしまいました。

127
わたくしはわらいました。
「よくいろいろの薬の名前をご存知ぞんじですな。だれか水を持ってきてください。」

128
ところがその水をミーロがもってきました。そして如露じよろでシャーとかけましたのでデストゥーパーゴはひざから胸からずぶぬれになって立ちあがりました。そして工合ぐあいのわるいのをごまかすように、
「ええと、我輩はこれで失敬する。みんな充分やってくれたまえ。」と勢よく云いながらすばやく野原のなかへ走りました。するとテーモも夏フロックもそのほか四五人急いであとを追いかけて行ってしまいました。行ってしまうとにわかにみんなが元気よくなりました。
「やい、ファゼーロ、うまいことをやったなあ。この旦那だんなはいったい誰だい。」
「競馬場に居る人なんだよ。」
「いったい今夜はどういうんですか。」わたくしはやっとたずねました。
「いいや、山猫やまねこの野郎来年の選挙の仕度なんですよ。ただで酒をませるポラーノの広場とはうまく考えたなあ。」
「この春からかわるがわるこうやってみんなを集めて呑ませたんです。」
「その酒もなあ。」
「そいつは云うな。さあ一杯やりませんか。」
「いいえわたくしどもは呑みません。」
「まあ、おやんなさい。」〔以下二行分空白〕

129
わたくしはもうたまらなくいやになりました。
「おい、ファゼーロ行こう。帰ろう。」

130
わたくしはいきなり野原へ走りだしました。ファゼーロがすぐついて来ました。みんなはあとでまだがやがやがやがや云っていました。新らしく楽隊も鳴りました。誰かの演説する声もきこえました。わたくしたちは二人、モリーオの市の方のぼんやり明るいのを目あてにつめくさのあかりのなかを急ぎました。そのとき青く二十日の月が黒い横雲の上からしずかにのぼってきました。ふりかえってみるともうあのはんの木もあかりも小さくなって銀河はずうっと西へまわりさそり座の赤い星がすっかり南へ来ていました。

131
わたくしどもは間もなくこの前三人で別れたあたりへ着きました。
「きみはテーモのところへ帰るかい。」わたくしはふと気がついて云いました。
「帰るよ。姉さんが居るもの。」ファゼーロは大へんかなしそうなせまった声で云いました。
「うん。だけどいじめられるだろう。」わたくしは云いました。
「ぼくが行かなかったら姉さんがもっといじめられるよ。」ファゼーロはとうとう泣きだしました。
「わたしもいっしょに行こうか。」
「だめだよ。」ファゼーロはまだしばらく泣いていました。
「わたしのうちへ来るかい。」
「だめだよ。」
「そんならどうするの。」

132
ファゼーロはしばらくだまっていましたがにわかに勢よくなって云いました。
「いいよ。大丈夫だよ。テーモはぼくをそんなにいじめやしないから。」

133
わたくしは、それが役人をしているものなどのくせなのです、役所でのあしたの仕事などぼんやり考えながらファゼーロがそう云うならよかろうと思ってしまいました。
「そんならいいだろう。何かあったらしらせにおいでよ。」
「うん、ぼくね、ねえさんのことでたのみに行くかもしれない。」
「ああいいとも。」
「じゃさよなら。」

134
ファゼーロはつめくさのなかに黒い影を長く引いて南の方へ行きました。わたくしはふりかえりふりかえり帰って来ました。うちへはいってみると、机の上には夕方の酒石酸しゆせきさんのコップがそのまま置かれて電燈でんとうに光り枕時計まくらどけいの針は二時を指していました。

四、警察署けいさつしよ

135
ところがその次の次の日のひるすぎでした。わたくしが役所の机で古い帳簿ちようぼから写しものをしていますと給仕きゆうじが来てわたくしの肩をつっついて
「所長さんがすぐ来いって。」と云いました。わたくしはすぐペンを置いてみんなの椅子いすの間を通り、間の扉をあけて所長室にはいりました。

136
すると所長は一枚の紙きれを持って扉をあける前からこわい顔つきをしてわたくしの方を見ていましたが、わたくしが前へ行ってうやうやしく礼をすると、またじっとわたくしの様子を見てからだまってその紙切れを渡しました。見ると、

137
  イ警第けいだい三二五六号 聴取ちようしゆの要有之これあり本日午后三時 本警察署人事係まで出頭致しゆつとういたされ

138
                              イーハトーボ警察署

139
    一九二七年六月廿九日

140
  第十八等官とうかん レオーノ キュースト殿どの
とあったのです。

141
ああ、あのデストゥパーゴのことだなこれはおもしろいと、わたくしは心のなかでわらいました。すると所長はまだわたくしの顔付きをだまってみていましたが「心当りがあるか。」と云いました。
「はい、ございます。」わたくしはまっすぐに両手を下げて答えました。所長は安心したようにやっと顔つきをゆるめてちらっと時計を見上げましたが「よし、すぐ行くように。」と云いました。わたくしはまたうやうやしく礼をしてへやを出ました。それから席へ戻って机の上をかたづけて、そっと役所を出かけました。おおきな桜の街路樹がいろじゆの下をあるいて行って警察の赤い練瓦れんが造りの前に立ちましたらさすがにわたくしもすこしどきどきしました。けれども何も悪いことはないのだからとじぶんでじぶんをはげまして勢よく玄関の正面の受付にたずねました。
「お呼びがありましたので参りましたが、レオーノ キューストでございます。」

142
すると受付の巡査じゆんさはだまって帳面ちようめんを五六枚っていましたが
「ああ失踪者しつそうしやの件だね、人事係のとこへ、その左の方の入口からはいって待っていたまえ。」と云いました。失踪者の件というのは何のことだろう、決闘の件とでも云うならわかっているしその決闘なら刃のまるくなった食卓ナイフでやったことなのだ、デストゥパーゴが血を出したかどうかもわからない、まあ何かの間違いだろうと思いながらわたくしは室へ入って行きました。そこはがらんとした窓の七つばかりある広い室でした―がその片隅かたすみにあの山猫やまねこ博士の馬車別当ばしやべつとうがからだを無暗むやみにこわばらしてじつに青ざめた変な顔をしながら腰掛こしかけて待って居りました。
「やあ、じいさん、今日は、あなたも呼ばれたんですか。」わたくしはそばへ行ってわらいながら挨拶しました。するとじいさんはこんな悪者と話し合ってはどんなにあうかわからないというようにうろうろどこかげ口でもさがすように立ちあがって、またべったり座りました。
「あなたのご主人はいらっしゃらないのですか。」わたくしはまたたずねました。
「いらっしゃらないともさ。」じいさんはやっと云いましたがそれからがたがたふるえました。
「いったいどうしたんですか。」わたくしはまだわらってききました。
「いま調べられてるんだよ。」
たれが。」わたくしはびっくりしてたずねました。
「ロザーロがさ。」
「ロザーロ、どうして?」もうわたくしはすっかり本気になってしまいました。
「ファゼーロが居なくなったからさ。」
「ファゼーロ?」思わずわたくしは高く叫びました。あああの晩ファゼーロが帰る途中で何かあったのだな、……
「話しすることはならん」

143
いきなり奥のががたっとあきました。
召喚人しようかんにんはお互話しすることはならん。おい、おまえはこっちへはいって居ろ。」じいさんは呼ばれてよろよろ立って次のへやへ行きました。そう云われて見るとなるほど次の室ではロザーロかたれか調べられているらしくさっきからしずかに何か繰り返し繰り返し云っているような気もしました。わたくしはまるで胸がせまってしまいました。ファゼーロが居ない、ファゼーロが居ない、あの青い半分の月のあかりのなか、争って勝ったあとのあの何とも云われないさびしい気持をいだきながら、ファゼーロがつめくさのあおじろいあかりの上に影を長く長く引いて、しょんぼりと帰って行った、そこには麻の夏外套なつがいとうのえりを立てたデストゥパーゴが三四人の手下を連れて待ち伏せしている、ファゼーロがそれを見て立ちどまると向うは笑いながらしずかにそばへ追って来る、いきなり一人がファゼーロをなぐりつける、みんなたかって来て、むだに手をふりまわすファゼーロをふんだりけったりする、ファゼーロは動かなくなる、デストゥパーゴがそれをまためちゃくちゃにふみつける、ええもう仕方ない持ってけ持ってけとデストゥパーゴが云う、みんなはそれを乾溜かんりゆう工場のかまの中に入れる。わたくしはひとりでかんがえてぞっとして眼をひらきました。(あああのときなぜわたくしはそのままうちへ帰ってねむったろう、なぜそんなわたくしが立っても居てもいられないはずの時刻じこくにわけもわからない眠りかたなどしていたろう。それにあのやさしいうつくしいロザーロがいまとなりの室でおどされたりかまをかけられたりしているのだ。)わたくしはたまらなくなってその室のなかをぐるぐる何べんもあるきました。窓の外の桜の木の向うをいろいろの人が行ったり来たりしました。わたくしはその一人一人がデストゥパーゴかファゼーロのような気がしてたまりませんでした。鳥打帽子とりうちぼうしを深くかぶった少年が通るとファゼーロがげてここをそっと通るのかと思い、ふとった人を見るとデストゥパーゴが、わざとそんな形にばけて様子をさぐっているのだと思いました。突然わたくしは頭がしいんとなってしまいました。となりの室でかすかなすすり泣きの声がしてそれからそれは何とかだっ、叫びながらおどすように足をどんとふみつけているのです。わたくしはあぶなく扉をあけて飛び込もうとしました。するとまたしばらくしずかになっていましたが間もなく扉のとってが力なくがちっとまわってロザーロが眼を大きくあいてよろめくようにでてきました。

144
わたくしは何といっていいかわからなくてどぎまぎしてしまいました。するとロザーロがだまってしずかにおじぎをして私の前を通り抜けて外へ出て行きました。気がついて見るとロザーロのあとからさっきの警部けいぶ巡査じゆんさからしい人が扉から顔を出して出て行くのを見ていたのです。わたくしがそっちを見ますとその顔はひっこんで扉はしまってしまいました。中ではこんどは山猫やまねこ博士の馬車別当が何かかれているようす、たびたび、何か高声でどなりつけるたびに馬車別当のおろおろした声がきこえていました。わたくしはその間にすっかり考えをまとめようと思いましたが、何もかもごちゃごちゃになってどうしてもできませんでした。とにかくすっかり打ち明けて係りへ話すのがいちばんだと考えてもうじっとすわって落ち着いて居りました。すると間もなくさっきの扉ががぢゃっとあいて馬車別当がまっ青になってよろよろしながら出てきました。
「第十八等官、レオーノ、キュースト氏はあなたですか。」さっきの人がまた顔を出して云いました。
「そうです。」
「では、こっちへ。」

145
わたくしははいって行きました。

146
そこにはも一人正面にテーブルに書類をせてひげの立派な一人の警部らしい人がたったいまあくびをしたところだというふうに目をぱちぱちしながらこっちを見ていました。
「そこへお掛けなさい。」

147
わたくしは警部の前に会釈えしやくして座りました。
「君がレオーノキュースト君か。」警部は云いました。
「そうです。」
「職業、官吏かんり位階いかい十八等官、年齢、本籍ほんせき、現住、この通りかね。」警部はわたくしの名やいろいろ書いた書類を示しました。
「そうです。」
「ではたずねるが、君はテーモ氏の農夫ファゼーロをどこへかくしたか。」
「農夫のファゼーロ?」わたくしは首をひねりました。
「農夫だ。十六歳以上は子どもでも農夫だ。」警部は面倒めんどうくさそうに云いました。
「君はファゼーロをどこかへかくしているだろう。」
「いいえ、わたくしは一昨夜競馬場けいばじようの西で別れたきりです。」
うそを云うとそれも罪に問うぞ。」
「いいえ。そのときは廿日はつかの月も出ていましたし野原はつめくさのあかりでいっぱいでした。」
「そんなことが証拠しようこになるか。そんなことまでおれたちは書いていられんのだ。」
「偽だとお考えになるならどこなりとお探しくださればわかります。」
「さがすさがさんはこっちの考だ。お前がかくしたろう。」
「知りません。」
起訴きそするぞ。」
「どうでも。」

148
二人は顔を見合わせました。
「ではたずねるが君はどういうことでファゼーロと知り合いになったか。」
「ファゼーロがわたくしのげた山羊やぎをつかまえてくれましたので。」
「うん。それはいつどこでだ。」
「五月のしまいの日曜、廿七日でしたかな。」
「うん。廿七日。どこでだ。」
「あれは何という道路ですか、教会の横から、村へ出る道路を一キロばかり行った辺です。」
「うん。おまえは廿七日の晩ファゼーロと連れだって村の園遊会えんゆうかいへちん入したなあ。」
「ちん入というわけではありませんでした。明るくていろいろな音がしますので行って見たのです。」
「それからどうした。」
「それからわたくしどもが酒をまんと云いますとテーモが怒ったのです。」
「テーモとお前とはいつから知り合いか。」
「ファゼーロと知り合いになったときです。そのときテーモはファゼーロが仕事に行く時間をわたくしが邪魔じやましたといって革むちをわたくしの顔の前で鳴らしました。」
「それだけか。」
「はい。」
「園遊会でそれからどういうことになったか。」

149
わたくしはそこであのポラーノの広場での出来事を全部話しました。一人はそれをどんどん書きとりました。警部が云いました。
「きみはファゼーロの居ないことをさっきまで知らなかったのか。」
「はい。」
「何か証拠しようこを挙げられるのか。」
「はい、ええ、昨日と今日役所での仕事をごらん下さればわかります。わたくしはあれですっかりかたが着いたと思ってせいせいして働いていたのであります。」
「それも証拠しようこにはならん。おい、君、白っぱくれるのもいい加減かげんにしたまえ。テーモ氏からそう索願さくねがいが出ているのだ。いま君がありかを云えば内分ないぶんで済むのだ。でなけあ、きみのためにならんぜ。」
「どうも全く知らないのです。まあ、あなたがたもご商売でしょうが、わたくしの声や顔付きをよくごらんください。これでおわかりにならんのですか。」わたくしは少ししゃくにさわって一息にいました。

150
すると二人はまた顔を見合せました。ええもうなるようになれとわたくしはまた云いました。
「なぜわたくしより前にデストゥパーゴを呼び出してくださらんのです。たれが考えてもファゼーロの居ないのはデストゥパーゴのしわざです。まさか殺しはしますまいが。」

151
「デストゥパーゴ氏は居らん。」

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わたくしはどきっとしました。ああファゼーロは本気かあるいは間ちがって殺されたのかもしれない。警部が云いました。
「お前の申し立てはいろいろの点でテーモ氏の申し立てとちがっている。しかしわれわれはそれは当然だろうと考える。いま調書ちようしよを読むから君の云ったところとちがった所がないかよくききたまえ。」一人は読みはじめました。
「ちがいはありません。」私はファゼーロのことを考えながら上の空で答えました。
「ここへ署名したまえ。」

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わたくしは書類のはじへ書きました。もうどうしても心配で心配でたまらなくなったのです。
「では帰ってよろしい。明日また呼ぶから。」警部は云いました。わたくしはたまらなくなりました。
「ファゼーロはどうしたんです。なぜデストゥパーゴをつかまえんのです。」
「それを君が云うことは要らん。」
「だってファゼーロはどうしたんです。」
「そんなら心配なら君もさがしたまえ。さあ帰り給え。」二人はもう疲れて早くやめたいという風でした。わたくしは、もうあかりのついていた警察署を夢中むちゆうで飛びだしました。すると出口の桜のみきに、その青い夕方のもやのなかに、ロザーロがしょんぼりよりかかってかなしそうに遠いそらを見ていました。わたくしは思わずかけよりました。
「あなたはロザーロさんですね。わたくしはどこへさがしに行ったらいいでしょう。」

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ロザーロが下を見ながら云いました。
「きっと遠くでございますわ。もし生きていれば。」
「わたくしがいけなかったんです。けれどもきっとさがしますから。」
「ええ、」
「デストゥパーゴはいないんですか。」
「いないんです。」
「馬車別当は?」
「見ませんでした。」
「あなたのご主人は知っていないんですか。」
「ええ。」
捜索願そうさくねがいをわざと出したのでしょう。」
「いいえ。警察からも人が来てしらべたのです。」
「あなたはこれから主人のとこへお帰りになるんですか。」
「ええ、」
「そこまでご一所いつしよいたしましょう。」

155
わたくしどもはあるきだしました。わたくしはいろいろ話しかけて見ましたが、ロザーロはどうしてもかなしそうで一言ひとことか二言しか返事しませんのでわたくしはどうしてももっと立ち入ってファゼーロと二人のことに立ち入ることができませんでした。そしてこの前山羊やぎをつかまえた所まで来ますとロザーロは「もうじきですから」と云ってじぶんからおじぎをして行ってしまいました。わたくしはさびしさや心配で胸がいっぱいでした。そしてその晩から毎晩毎晩野原にファゼーロをさがしに出ました。日曜にはひるも出ました。ことにこの前ファゼーロと分れた辺からテーモの家までの間に何か落ちてないかと思ってさがしたりつめくさの花にデストゥパーゴやファゼーロのあしあとがついていないかと思って見てまわったりデストゥパーゴの家から何か物音がきこえないかと思って幾晩いくばんも幾晩もそのまわりをあるいたりしました。

156
前の二本のかばの木のあたりからポラーノの広場へも何べんも行きました。もうそのうちにつめくさの花はだんだん枯れて茶いろになり、ポラーノの広場のはんのきにはちぎれて色のさめたモールが幾本かかかっているだけ、ミーロへも会いませんでした。警察からはあと呼び出しがありませんでしたのでこっちから出て行ってどうなったかきいたりしましたが警察ではファゼーロもデストゥパーゴも、まだ手がかりはないが心配もなかろうというようなことばかり云うのでした。そしてわたくしも、どういうわけか、なれたのですかつかれたのですか、ファゼーロはファゼーロでちゃんとどこかにいるというような気がしてきたのです。

五、センダード毒蛾どくが

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そしてだんだん暑くなってきました。役所では窓に黄いろな日覆ひおおいもできましたしとなりの所長のへやには電気会社から寄贈きぞうになった直径七デシもある大きな扇風機せんぷうきえつけられました。あまり暑い日の午后などは所長が自分で立って間のをあけて
「さあ諸君しよくん少し風にあたりたまえ。」なんて云ったものです。すると大扇風機だいせんぷうきから風がどうどうやって来ました。もつとも私の席はその風の通り路からすこし外れていましたから格別涼かくべつすずしかったわけでもありませんでしたがそれでも向うの書類やテーブルかけがぱたぱた云っているのを見るのは実際愉快ゆかいなことでした。それでもそんな仕事のあいまにふっとファゼーロのことを思いだすと胸がどかっと熱くなってもうどうしたらいいかわからなくなるのでした。とにかくその七月いっぱいに私のした仕事は

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 一、北極熊ほつきよくぐま剥製はくせい方をテラキ標本ひようほん製作所せいさくじよ照会しようかいの件

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 一、ヤークシャ山頂さんちよう火山弾かざんだん運搬うんぱん費用ひよう見積みつもりの件

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 一、植物標本褪色たいしよく調査の件

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 一、新番号札二千三百枚調製ちようせいの件

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などでした。そして八月に入りました。その八月二日のひるすぎ、わたくしが支那しな漢時代の石にきざんだの説明をうつらうつら写していましたら、給仕がうしろからいきなりわたくしの首すじを突っついて、
「所長さん来いって。」といいました。わたくしはすこしむっとしてふり返りましたら給仕はまた威張いばって云いました。
「所長さんがすぐ来いって。」

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わたくしは返事もしないでだまってみんなの椅子いすのうしろを通り例のをあけて恭々うやうやしくはいって行きました。

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所長は肥った白い手首にあごをもたせて扇風機せんぷうきにあたりながら新聞を見ていましたがわたくしが行くとだるそうにちょっと眼をあげてそれから机の上の紙挟かみばさみから一枚の命令書めいれいしよをわたくしによこしました。それには
海産鳥類かいさんちようるい卵採集らんさいしゆうの為に八月三日より二十八日間イーハトーヴォ海岸地方に出張を命ず。」と書いてありました。わたくしはまるでほくほくしてしまいました。あのイーハトーヴォの岩礁がんしようの多い奇麗きれいな海岸へ行って今ごろありもしない卵をさがせというのはこれは慰労休暇いろうきゆうかのつもりなのだ。それほどわたくしが所長にもみんなにも働いていると思われていたのか、ありがたいありがたいと心の中で雀躍じやくやくしました。すると所長は私の顔は少しも見ないでやっぱり新聞を見ながら、
「会計へまわって見積旅費みつもりりよひを受け取るように。」と一言だけ云いました。わたくしは叮寧ていねいに礼をしてへやを出ました。それからその辞令をみんなへ一人づつ見せて挨拶あいさつしてあるきおしまい会計に行きましたら会計の老人はちょっと渋い顔付きはしていましたがだまってわたくしの印を受け取って大きな紙幣しへいを八枚も渡してくれました。ほかに役所の大きな写真器械や双眼鏡そうがんきようも借りました。うちへ帰るとわたくしは持っていたレコードをみんな町の古時計屋へ売ってしまいました。そして大きなへりのついたパナマの帽子と卵いろのリンネルの服を買いました。

165
次の朝わたくしは番小屋にすっかりかぎをおろし一番の汽車でイーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町に立ちました。その六十里の海岸を町から町へ、みさきから岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻かいそう押葉おしばにしたり、岩石の標本をとったり古い洞穴ほらあな模型的もけいてきな地形を写真やスケッチにとったりそしてそれを次々に荷造にづくりして役所へ送りながら二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。海岸の人たちはわたくしのような下級の官吏かんりでも大へんめずらしがってどこへ行っても歓迎かんげいしてくれました。沖の岩礁がんしようへ渡ろうとするとみんなは船に赤や黄のはたを立てて十六人もかかってをそろえていでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかがりをたいていろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでもいいと思いました。けれどもファゼーロ! あの暑い野原のまんなかでいまも毎日はたらいているうつくしいロザーロ、そう考えて見るといまわたくしの眼のまえで一日一ぱいはたらいてつかれたからだを踊ったりうたったりしている娘たちや若ものたち、わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ、みんなの〔数文字分空白〕とひとりでこころにちかいました。

166
そして八月三十日のひるごろわたくしは小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に着きそこから汽車でセンダードの市に行きました。三十一日わたくしはそこの理科大学の標本をも見せてもらうように途中とちゆうから手紙をだしてあったのです。わたくしが写真器と背嚢はいのうをもってセンダードの停車場ていしやばに下りたのはちょうど灯がやっとついた所でした。わたくしは大学のすぐ近くのホテルからの客を迎える自働車じどうしやへほかの五六人といっしょに乗りました。採って来たたくさんの標本をもってそのおおきな建物の間を自働車じどうしやで走るときわたくしはまるで凱旋がいせんの将軍のような気がしました。ところがホテルへ着いて見ると、この暑いのに窓がすっかり閉めてあるのです。へやへ通されてみると仲々むし暑いのでわたくしは給仕に
「おい、どうしたんだ。窓をあけたらいいじゃないか。」と云いました。すると給仕はてかてかのかみをちょっとでて
「はい、まことにお気のどくでございますが、当地方には、毒蛾どくががひどく発生して居りまして、夕刻ゆうこくからは窓をあけられませんのでございます。只今ただいま、扇風機を運んでまいります。」と云ったのでした。

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なるほど、そう云って出て行く給仕を見ますと、首にまるで石のをはめたような厚い繃帯ほうたいをして、顔もだいぶはれていましたからきっと、その毒蛾にまれたんだと、私は思いました。ところが、間もなく隣りの室で、給仕が客と何かい争っているようでした。それが仲々長いしはげしいのです。私は暑いやら疲れたやら、すっかりむしゃくしゃしてしまいましたので、今のうち一寸ちよつと床屋へでも行って来ようと思って室を出ました。そしてとなりの室の前を通りかかりましたら、が開け放してあって、さっきの給仕がひどく悄気しよげて頭を垂れて立っていました。向うには、髪もひげもまるで灰いろの、ふとったふくろうのようなおじいさんが、安楽椅子あんらくいすにぐったりこしかけて、扇風機にぶうぶう吹かれながら、
「給仕をやっていながら、一通りのホテルの作法も知らんのか。」とほほをふくらして給仕をしかりつけていました。私は、ははあ扇風機のことだなと思いながら、苦笑いをしてそこを通り過ぎようとしますと、給仕がちょっとこっちを向いて、いかにも申し訳けないというように眼をつぶって見せました。私はそれですっかり気分がよくなったのです。そして、どしどし階段を踏んで、通りにりました。

168
なるほど、毒蛾どくがのことがわかって町をあるくと、さっき停車場ていしやばからホテルへ来る途中、いろいろ変に見えたけしきも、すっかりもっともと思われたのです。人道にはたくさんたき火のあとがありましたし、みんなは繃帯ほうたいをしたり白いきれで顔をこすったりしながら歩いていました。また並木のやなぎにはいちいち石油ランプがぶらさがっていたのです。私は一けんの床屋に入りました。それは向側の鏡が、九枚も上手にいであって、店が丁度ちようど二倍の広さに見えるようになって居り、糸杉やこめつが植木鉢うえきばちがぞろっとならび、親方らしいすみのところで指図さしずをしている人のほかに職人がみなで六人もいたのです。すぐ上の壁に大きながくがかかってそこにそのうちの四人の名前が理髪りはつアーティストとして立派にならび二人は助手として書かれていました。
「おくしはこの通りの型でよろしうございますか。」私が鏡の前の白いきれをかけた上等の椅子いすに座ったとき、そのうちの一人が私にたずねました。
「ええ。」私はもう明日は帰るイーハトーヴォの野原のことを考えながらぼんやり返事をしました。するとその人は向うで手のあいているもう二人の人たちを指で招きながら云いました。
「どうだろう。お客さまはこの通りの型でいいとっしゃるが、君たちの意見はどうだい。」

169
二人は私のうしろに来て、しばらくじっと鏡にうつる私の顔を見ていましたが、そのうち一人のアーティストが、白服の腕を胸に組んで答えました。
「さあ、どうかね、お客さまのおあごが白くて、それに円くて、大へん温和おとなしくいらっしゃるんだから、やはり、オールバックよりはネオ、グリークの方がいいじゃないかなあ。」
「うん。僕もそう思うね。」も一人も同意しました。私の係りのアーティストがおれもそうおもっていたというようにうなずいて、私に云いました。
「いかがでございます、ただいまのおくしの型よりは、ネオグリークの方がお顔と調和いたしますようでございますが。」
「そうですね、じゃそう願いましょうか。」私も叮寧ていねいに云いました。なぜならこの人たちはみんな立派な芸術家だとおもったからです。

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さて、私の頭はずんずん奇麗きれいになり、疲れも大へん直りました。これなら、今夜よくやすんで、あしたは大学のあの地下になった標本室で向うの助手といちにち暮しても大丈夫だと思って、気もちよく青い植木鉢や、アーティストの白い指の動くのや、チャキチャキ鳴るはさみの影をながめて居りました。

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するとにわかに私のとなりの人が、
「あ、いけない、いけない、押えてくれたまえ。畜生ちくしよう畜生。」とひどく高い声で叫んだのです。

172
びっくりして私はそっちを見ました。アーティストたちもみなせ集ったのです。それこそはひげを片っ方だけったままで大へんせては居りましたが、しかしたしかにそれはデストゥパーゴです。わたくしは占めたとおもいました。デストゥパーゴはわたくしなぞ気がつかずにまだおそろしそうに顔をゆがめていました。
「どこへさわりましたのですか。」さっきの親方のアーティストが麻のモーニングを着て、大きなフラスコを手にしてみんなを押し分けて立っていました。そのうちに二三人のアーティストたちは、押虫網おうちゆうもうでその小さな黄色な毒蛾どくがをつかまえてしまいました。
「ここだよ、ここだよ。早く。」と云いながら紳士しんしは左の眼の下を指しました。親方のアーティストは、大急ぎで、フラスコの中の水を綿にしめしてその眼の下をこすりました。
「何だいこの薬は。」デストゥパーゴが叫びました。
「アンモニア二%液」と親方が落ち着いて答えました。
「アンモニアはかないって、今朝の新聞にあったじゃないか。」デストゥパーゴは椅子いすから立ちあがりました。デストゥパーゴは桃いろのシャツを着ていました。
「どの新聞でごらんです。」親方は一層落ちついて答えました。
「センダード日日新聞だ。」
「それは間違いです。アンモニアのくことは県の衛生課長えいせいかちようも声明しています。」
「あてにならん。」
「そうですか。とにかく、だいぶれて参ったようです。」親方のアーティストは、少ししゃくにさわったと見えて、プイッとうしろを向いて、フラスコを持ったまま向うへ行ってしまいました。デストゥパーゴはぷんぷん怒りだしました。
失敬しつけいじゃないか、あしたは僕は陸軍の獣医官じゆういかんたちと大事な交際があるんだぞ。こんなことになっちゃ、まるで向うの感情を害するばかりだ。きさまの店をうつたえるぞ。」といながら、ずんずん赤くはれて行くほほかがみで見ていました。親方もむかっ腹を立てて云いました。
「なあに毒蛾どくがなんか、市中いたる処に居るんだ。町をあるいてさわられたら市長でも訴えたらよかろうさ。」

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デストゥパーゴは、渋々しぶしぶ、又椅子いすに座って、
「おい、早くあとをやってしまってれ早く。」と云いました。そして、しきりに変な形になって行く顔を気にしながら、残りの半分のひげをらせていました。

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わたくしも急ぎました。けれどもたしかにわたくしの方が早く済むのです。それでも向うがさきに済んだらこっちもすぐ立とうと思ってそっと財布をさぐって大きな銀貨を一枚もってにぎっていました。

175
ところがどういうわけか私より私のアーティストがもっと急いで居りました。そしてしきりに時計を見ました。

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まるで私の顔などは、三十秒ぐらいでってしまったのです。わたくしはこわがりながらじつにうまいとおもっていました。
「さあお洗いいたしましょう。」

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私は、デストゥパーゴに知れないように、手で顔をかくしながら大理石だいりせき洗面器せんめんきの前に立ちました。

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アーティストは、つめたい水でシャアシャアと私の頭を洗い時々は指で顔もぬぐいました。

179
それから、私は、自分で勝手に顔を洗いました。そして、も一度椅子いすにこしかけたのです。

180
その時親方が、
「さあもう一分だぞ。電気のあるうちに大事なところはましちまえ。それからアセチレンの仕度したくはいいか。」
「すっかり出来ています。」小さな白い服の子供が云いました。
「持って来い。持って来い。あかりが消えてからじゃ遅いや。」親方が云いました。

181
そこでその子供の助手が、アセチレン燈を四つ運び出して、鏡の前にならべ、水を入れて火をつけました。はげしく鳴って、アセチレンは燃えはじめたのです。その時です。あちこちの工場の笛は一斉に鳴り、子供らは叫び、教会やお寺の鐘まで鳴り出して、それから電燈でんとうがすっと消えたのです。電燈のかわりのアセチレンで、あたりがすっかり青く変りました。

182
それから私は、鏡に映っている海の中のような、青いへやの黒く透明なガラス戸の向うで、赤い昔の印度インドしのばせるような火が燃されているのを見ました。一人のアーティストが、そこでしきりにまきを入れていたのです。
「今夜は、毒蛾どくが全滅ぜんめつだな。」たれか向うで言いました。
「さあどうかねえ。」私のとこのアーティストは、私の頭に、金口のびんから香水をかけながら答えました。それからアーティストは、私の顔をも一度よく拭って、それから戸口の方をふり向いて、
「ちょっと見て呉れ。」と云いました。アーティストたちは、あるいは戸口に立ち、あるいはたき火のそばまで行って、外の景色をながめていましたが、この時一人が大急ぎでみんな私のうしろに集まりました。そしてかがみの中の私の顔を、それはそれは真面目まじめな風でしらべてから
「いいようだね。」と言いました。私はそこで椅子いすから立ちました。しっかりにぎっていて温くなった銀貨を一枚払いました。そしてその大きなガラスの戸口を出て通りに立ちました。デストゥパーゴのあとをつけようとおもったのです。

183
そこへ立って、私は、全く変な気がして、胸の躍るのをやめることができませんでした。それはあのセンダードの市の大きな西洋造せいようづくりの並んだ通りに、電気が一つもなくて、並木のやなぎには、黄いろの大きなランプがつるされ、みちにはまっ赤な火がならび、そのけむりはやさしい深い夜の空にのぼって、カシオピイアもぐらぐらゆすれ、琴座もおぼろにまたたいたのです。どうしてもこれははるかの南国の夏の夜の景色のように思われたのです。私は、店のなにかのぞきながら待っていました。いろいろな羽虫が本統にその火の中に飛んで行くのも私は見ました。向うでもこっちでも、繃帯ほうたいをしたり、きれを顔にあてたりしながら、まちの人たちが火をたいていました。

184
そのうちに、私は向うの方から、高いするどい、そして少し変な力のある声が、私の方にやって来るのを聞きました。だんだん近くなりますと、それは頑丈がんじようそうな変に小さな腰の曲ったおじいさんで、一枚の板きれの上に四本の鯨油蝋燭げいゆろうそくをともしたのを両手にささげてしきりにう叫んで来るのでした。
「家の中の燈火あかりを消せい。電燈でんとうを消してもほかのあかりをけちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。」

185
あかりをつけている家があるとそのおじいさんはいちいちその戸口に立って叫ぶのでした。
「家の中のあかりを消せい。電燈を消してもほかのあかりをつけちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。」その声はガランとした通りに何べんも反響はんきようしてそれからやみに消えました。

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この人はよほどみんなに敬われているようでした。どの人もどの人もみんな叮寧におじぎをしました。おじいさんはいよいよ声をふりしぼって叫んで行くのでした。
「家の中のあかりを消せい。電燈を消してもほかのあかりをつけちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。いや、今晩こんばんは。」叫びながら右左の人に挨拶あいさつを返して行くのでした。
「あの人は何ですか。」私は火にあたっているアーティストにたずねました。
撃剣げつけんの先生です。」

187
ところがその撃剣げつけんの先生はつかつかと歩いて来ました。
「うちのなかのあかりを消せい、電燈を消してもべつのあかりをつけちゃなんにもならん。はやく消せい。おや、今晩は。なるほど、こちらの商売では仕方ないかね。」「ええ、先生、今晩は。ご苦労様でございます。」親方がでてきて挨拶しました。「いや今晩は。どうもひどい暑気ですね。」「へい、全く、虫でしめっ切りですからやりきれませんや。」
「そうねえ、いや、さよなら。」撃剣げつけんの先生はまただんだん向うへ叫んで行きました。その声がだんだん遠くなってどこかの町の角でもまがったらしいときその青い海の中のような床屋の店のなかからとうとうデストゥパーゴが出て来てしばらく往来を見まわしてからすたすた南の方へあるきだしました。わたくしは後向きになって火の中へ落ちるを見ているふりをしていましたがすぐあとをつけました。デストゥパーゴは毒蛾にさわられたためにたいへん落ち着かないようすでした。それにどこかよほどしょげていました。わたくしはあとをつけながらなんだかかあいそうなような気もちになりました。もちろんひとりもデストゥパーゴに挨拶するものもありませんでしたし、またデストゥパーゴはなるべくみんなに眼のつかないように車道とのさかいの並木のしたの陰影いんえいになったところをあるいているのでした。

188
どうもデストゥパーゴが大びらに陸軍の獣医たちなどと交際するなんてうそらしいとわたくしは思いました。とうとうデストゥパーゴは立ちどまってしばらくあちこち見まわしてから大通りから小さな小路にはいりました。わたくしは知らないふりをしてぐんぐん歩いて行きました。その小路をはいるとまもなく、一つの前庭のついた小さな門をデストゥパーゴははいって行きました。わたくしはすっかり事情を探ってからデストゥパーゴに会おうか、警察へ行って、イーハトーヴォでさがしているデストゥパーゴだと云って押えてしまってもらおうかとそのときまで考えていましたがいまデストゥパーゴの家のなかへはいるのを見るともう前后を忘れて走り寄りました。
「デストゥパーゴさん。しばらくでしたな。」

189
デストゥパーゴはぎくっとして棒立ちになりましたがわたくしを見るとげもしないでしょんぼりそこへ立ってしまいました。
「ファゼーロをたずねてまいったのですがどうかお渡しをねがいます。」

190
デストゥパーゴははげしく両手をふりました。
「それは誤解です誤解です。あの子どもはわたくしは知りません。」
「いったいそんならあなたはなぜこんなところへかくれたのですか。」

191
デストゥパーゴはまっ青になりました。
「イーハトーヴォの警察ではファゼーロといっしょにあなたもさがしているのです。もうすっかり手配がついています。今夜はどうなってもあなたはつかまります。ファゼーロはどこにいるのです。」わたくしは思わずうそをついてしまいました。デストゥパーゴは毒蛾どくがのためにふくれておかしな格好になった顔でななめにわたくしを見ながらぶるぶるふるえてまるで聞きとれないくらい早口に云いました。
「そんなはずはない、そんな筈はない。名誉にかけて、紳士の名誉にかけて。」
「なぜそんならあなたはこんなところへかくれたのです。」

192
デストゥパーゴはようやくふるえるのをやめてしばらく考えていましたがようやく少しゆっくり云いました。
「わたくしは警察からは召換しようかんされただけでそれは旅行届を出して代人を出してあるはずです。それについては署長に充分諒解りようかいを得てあります。警察ではわたくしに何の嫌疑けんぎもかけていない筈です。」
「そんならなぜ旅行届を出したりしてげたのです。」

193
デストゥパーゴはやっと落ち着きました。
「いや、おはいりください。詳しくお話しましょう。」デストゥパーゴはさきに立って小さな玄関の戸を押しました。するとさっきから内側で立って見ていたと見えて一人のおばあさんが出迎えました。
「お茶をあげてくれ。」デストゥパーゴはすぐ右側のへやへはいって行きました。わたくしはもう多分大丈夫だけれどもげるといけないと思って戸口に立っていました。デストゥパーゴは何かびんをかちかち鳴らしてから白いきれで顔を押えながら出て来ました。
「さあどうぞこちらへ。」

194
わたくしは応接室に通されました。デストゥパーゴはようやく落ち着きました。
「わたくしがここへ人をけて来ているのは全くちがった事情です。じつはあなたもご承知しようちでしょうがあの林の中でわたくしが社長になって木材乾溜かんりゆうの会社をたてたのです。ところがそれがこの頃の薬品の価格の変動でだんだん欠損けつそんになってどうにもしかたなくなったのです。わたくしはいろいろやって見ましたがどうしてもいかなかったのです。もちろんあの事業にはわたくしの全財産もしてあります。すると重役会である重役がそれをあのまま醸造所じようぞうしよにしようということを発議はつぎしました。そこでわたくしどもも賛成して試験的にごくわずか造って見たのですが、それを税務署へ届け出なかったのです。ところがそれをだしにしてわたくしのある部下のものがわたくしを脅迫きようはくしました。あの晩はじつに六ヶむつかしい場合でした。あそこに来ていたのはみんな株主でした。わざとあすこをえらんだのです。ところが株主かぶぬしの反感は非常だったのです。わたくしももうやけくそになってああいう風に酔っていたのです。そこへあなたが出て来たのですからなあ。」

195
わたくしははじめてあの頃のことがはっきりして来ました。それといっしょに眼の前にいるデストゥパーゴがかわいそうにもなりました。
「いや、わかりました。けれどもああファゼーロはどうしたろうなあ。」デストゥパーゴが云いました。
「わたくしはあの子どもをにくんで居りません。わたくしに前のようないい条件があれば世話して学校にさえ入れたいのです。けれどもあの子どもはきっとどこかで何かしていますぞ。警察でもそう見ています。」

196
わたくしはいきなり立ってデストゥパーゴに別れを告げました。
「ではわたくしは帰ります。あなたはここをどうかお立ち退きください。わたくしは帰ってこの事情を云わないわけにも参りませんから。」

197
デストゥパーゴがしょんぼりとして云いました。
「いまわたくしは全く収入のみちもないのです。どうか諒解りようかいしてください。」

198
わたくしは礼をしました。
「ロザーロは変りありませんか。」デストゥパーゴは大へん早口に云いました。
「ええ、働いているようです。」わたくしもなぜかふだんとちがった声で云いました。

六、かぜ草穂くさぼ

199
九月一日の朝わたくしは旅程表りよていひようやいろいろな報告を持ってきまった時間に役所に出ました。わたくしはみんなにも挨拶あいさつしてまわり、所長が出て来るや否やそのをノックしてはいって行きました。
「あ帰ったかね。どうだった。」所長は左手ではずれたカラーのぼたんをはめながら云いました。
「はい、おかげで昨夜戻って参りました。これは報告でございます。集めた標本類は整理いたしましてから目録もくろくをつくって後ほど持って参ります。」
「うん、そう急がないでもよろしい。」所長はカラーをはめてしまってしゃんとなりました。わたくしは礼をしてへやを出ました。そしてその日は一日来ていた荷物をほどいたり机の上にたまっていた書類を整理したりしているうちにいつか夕方になってしまいました。わたくしもみんなのあとから役所を出て、いままでの通り公衆食堂こうしゆうしよくどうで食事をして競馬場へ帰って来ました。するとやっぱりよほど疲れていたと見えてちょっと椅子いすへかけたと思ったらいつかもうとろとろねむってしまっていました。その甘ったるい夕方の夢のなかでわたくしはまだあの茶いろななめらかな昆布こんぶの干されたイーハトーヴォの岩礁がんしようの間を小舟に乗ってぎまわっていました。にわかに舟がぐらぐらゆれ何でも恐ろしくむかし風の竜が出てきてわたくしははねとばされて岩に投げつけられたと思って眼をさましました。たれかわたくしをゆすぶっていたのです。

200
わたくしは何べんもひとみを定めてその顔を見ました。それはファゼーロでした。
「あっ、どうしたんだきみはずうっと前から居たのかい。」わたくしはびっくりして云いました。
「ぼくはね、八月の十日に帰ってきたよ。おまえはいままで居なかったじゃないか。」
「居なかったさ。海岸へ出張していたんだ。」「今夜ね、ぼくらの工場へ来ておくれ。」
「きみらの工場? 何がどうしたんだ。全体きみはどこへ行ってたんだ。」
「ぼくはねえ、センダードのまちの革をめる工場へはいっていたよ。」
「センダード。どうしてあんなとこまで行ったんだ。そして今夜またぼくにセンダードへ行けというのかい。」
「そうじゃないよ。」
「ではどうなんだ。第一どうしてあんなとこまでいったんだ。」
「ぼくどうしてもうちへはいれなかったんだ。そしてうちを通り越してもっと歩いて行った。すると夜が明けた。ぼくが困って座っていると革を買う人が通ってその車にぼくをのせてたべものをくれた。それからぼくはだんだん仕事を手伝ってとうとうセンダードへ行ったんだ。」
「そうか。ほんとうにそれはよかったなあ。ぼくはまたきみがあの醋酸さくさん工場のかまの中へでも入れられて蒸し焼きにされたかと思ったんだ。」
「ぼくはね、あっちで技師の助手をしたんだ。するとその人が何でも教えてくれた。薬もみんな教えてくれた。ぼくはもう革のことならなめすことでも色を着けることでもなんでもできるよ。」
「そしてどうして帰ってきた。」
「警察から探されたんだよ。けれどもそんなに叱られなかった。」
「きみの主人は何と云った。」
「もうどこへ行ってもいいから勝手にしろって。」
「そしてどうするの。」
「年よりたちがねえ、ムラードの森の工場に居てぼくに革の仕事をしろというんだ。」
「できるかい。」
「できるさ。それにミーロはハムをこさえれるからな。みんなでやるんだよ。」
「姉さんは?」
「姉さんも工場へ来るよ。」
「そうかねえ。」
「さあ行こう今夜もたれか来ているから。」

201
わたくしはにわかに疲れを忘れて立ちあがりました。
「じゃ行こう。だけど遠いかい。」
「この前のポラーノの広場のちょっと向うさ。」
「少し遠いねえ。けれど行こう。」わたくしはすばやく旅行のときのままのなりをしていっしょにうちを出ました。ファゼーロはまた走りだしました。

202
雲が黄ばんでけわしくひかりながら南から北へぐんぐん飛んで居りました。けれども野原はひっそりとして風もなくただいろいろの草が高い穂を出したり変にもつれたりしているばかり、夏のつめくさの花はみんなとびいろに枯れてしまってその三つ葉さえ大へん小さく縮まってしまったように思われました。

203
そのときわたくしは二人の大きなかまをもった百姓がわたくしどもの前を横ぎるように通って行くのを見ました。その二人もこっちをちらっと見たようでしたがそれから何かはなし合ってとまってわたくしどもの行くのを待っているようすです。わたくしどもも急いで行きました。
「やあお前さん帰って来さしゃったね。まずご無事で結構けつこうでした。」

204
一人がわたくしに挨拶あいさつしました。この前ポラーノの広場でデストゥパーゴに介添かいぞえをしろと云われてげた男のようでした。
「ええありがとう。ファゼーロももう帰って来てすっかりもとの通りですね。」
「山猫博士が居ませんや。」
山猫やまねこ博士? デストゥパーゴ? デストゥパーゴにわたしはセンダードで会いましたよ。大へんおちぶれて気の毒なくらいだった。」
「いいえ、デストゥパーゴが落ちぶれるもんですか。大将センダードのまちにたくさん土地を持っていますよ。」
「はてな、財産はみんなあの乾溜かんりゆう会社にかけてしまったと云っていたが。」
「どうして、どうして、あの山猫がそんなことをするもんですか。会社の株がただみたいになったから大将げてしまったんです。」
「いや、何か重役の人が醸造じようぞうの方へかかろうとして手続を欠いて責任を負ったとか云っていたが。」
「どうしてどうして。酒をつくることなんかみんな大将の考なんですよ。」
「だって試験的にわずかつくっただけだそうじゃないですか。」
「あなたはよっぽどうまくだまされておいでですよ。あの工場からアセトンだと云って樽詰たるづめにして出したのはみんな立派な混成酒こんせいしゆでさあ。悪いのには木精もくせいもまぜたんです。その密造みつぞうなら二年もやっていたんです。」
「じゃポラーノの広場で使ったのもそれか。」
「そうですとも。いや何と云っても大将はずるいもんですよ。みんなにも弱味があるから、まあこのまま泣寝入なきねいりでさあ。ただまああの工場をこんどはみんなでいろいろに使ってできるだけお互のいるものはこさえようというんです。」「そうかねえ。ファゼーロが何かするのかい。」
「ええ、まあ別に新らしい資本がかかるわけでもなし革をなめしたりハムを拵えたり、栗を蒸して乾かしたり、そんなことをいろいろやろうというんです。」
「さあもう行こう。」ファゼーロがわたくしをつっつきました。
「それじゃまた」
「お休みなさい。」

205
どうもデストゥパーゴの云ったのが本当かみんなの云うのが本当かこれはどうもよくわからないとわたくしはあるきだしながらおもいました。

206
わたくしどもはどんどん走りつづけました。
「そらあすこに一つ、あかしがあるよ。」ファゼーロがちょっと立ちどまって右手の草の中を指さしました。そこの草穂くさぼのかげに小さな小さなつめくさの花が青白くさびしそうにぽっと咲いていました。

207
にわかに風が向うからどうっと吹いて来て、いちめんの暗い草穂は波だち、私のきもののすきまからはその冷たい風がからだ一杯にみこみました。
「ふう。秋になったねえ。」わたくしは大きく息をしました。ファゼーロがいつか上着は脱いでわきに持ちながら
「途中のあかりはみんな消えたけれども……」おしまい何と云ったか風がざぁっとやって来て声をもって行ってしまいました。
「まっすぐだよ、まっすぐだよ。わたくしはあれからもう何べんも来てわかっているから。」わたくしはファゼーロの近くへ行って風の中で聞えるように云いました。ファゼーロはかすかにうなずいてまた走りだしました。夕暗ゆうやみのなかにその白いシャツばかりぼんやりゆれながら走りました。

208
間もなくわたくしははるかな野原のはてに青じろい五つばかりのあかりとその上に青くかさのようになってぼんやりひかっているこの前のはんのきを見ました。だんだん近づいて行くとその葉が風にもまれて次から次といているよう、枝と枝とがぶっつかり合ってじぶんから青白い光を出しているようなのもわかるようになりまたその下に五人ばかりの黒い影が魚をとったりするときつかうアセチレン燈をもって立っているのも見ました。今日は広場にはテーブルも椅子も箱もありませんでした。ただ一つのから箱があるきりでした。そのなかから見覚えのある大きな帽子円い肩、ミーロがこっちへ出て来ました。
「とうとう来たな。今晩は、いいお晩でございます。」

209
ミーロはわたくしに挨拶あいさつしました。みんなも待っていたらしく口々に云いました。わたくしどもはそのまま広場を通りこしてどんどん急ぎました。

210
のはらはだんだん草があらくなってあちこちには黒いやぶも風に鳴りたびたびかしわの木かかばの木かがまっ黒にそらに立ってざわざわざわざわゆれているのでした。そしていつか私どもは細いみちを一列にならんであるいていたのです。
「もうじきだよ。」ファゼーロが一番前で高く叫びました。

211
みちの両側はいつかすっかり林になっていたのです。そして三十分ばかりだまって歩くとなにかぷうんと木屑きくずのようなもののにおいがしてすぐ眼の前に灰いろの細長い屋根が見えました。
たれか来ているな。」ファゼーロが叫びました。その大きな黒い建物の窓にちらちらあかりが射しているのです。
「おおい。キューストさんが来たぞ。」ミーロが高く叫びました。
「おおい。」中からも誰かが返事をしました。

212
私どもはその建物の中へ入って行きました。

213
そこにおおきな鉄のかまがスフィンクスのようにこっちに向いて置いてあって、土間には沢山たくさんの大きな素焼すやきつぼならんでいました。
「いや今晩こんばんは。」ひとりのはだしの年老った人が土間どまで私に挨拶あいさつしました。
「これが乾燥罐かんそうがまだよ。」ファゼーロが云いました。
「ここで何人かせいでいたって。」私はたずねました。
「そうねえ、盛んにもうかったときは三十人から居たろう。」ミーロが答えました。
「どうしてだめになったんだ。」

214
みんなが顔を見合せました。さっきの年老った人が云いました。
「薬のねだんが下ったためです。」
「そうですかねえ。そんなに間に合わないのかなあ。」
「ところが、ねえおい。ファゼーロ、おれはこのかまでやっぱり醋酸さくさんをつくった方がいいと思う。あのときは会社だなんてあんまりみんなでやったから損になったんだけれどもおれたちだけでやるんなら、手間にはきっとなるからな。十びんだって二十瓶だって引き受けると町の薬屋でも云ってくるからな。」
「そうだ。」ファゼーロが云いました。
「ここの下へたいた煙をとなりの酒をつくったむろに通して、あすこでハムをつくるといいな。」
「それはサートもそう云ってるよ。とにかくこのかまへ入れてやれば、木炭はそっくりとれるしさ、ハムもすぐに売れなくたって仲間へだけはわけれるからな。」
「さあよしやろう。キューストはたびたび来て見てくれるだろう。」
「ああぼくは畜産ちくさんの方にも林産醸造りんさんじようぞうの方にも友だちがあるからみんなさそって来てやるよ。ポラーノの広場のはなしをしてね。」
「そうだ、ぼくらはみんなで一生けん命ポラーノの広場をさがしたんだ。けれどもやっとのことでそれをさがすとそれは選挙につかう酒盛りだった。けれどもむかしのほんとうのポラーノの広場はまだどこかにあるような気がしてぼくは仕方ない。」
「だからぼくらはぼくらの手でこれからそれをこさえようでないか。」
「そうだ、あんな卑怯ひきような、みっともないわざとじぶんをごまかすようなそんなポラーノの広場でなく、そこへ夜行って歌えば、またそこで風を吸えばもう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢がよくて面白いようなそういうポラーノの広場をぼくらはみんなでこさえよう。」
「ぼくはきっとできるとおもう。なぜならぼくらがそれをいまかんがえているのだから。」
「さあよしやるぞ。ぼくはもう皮を十一枚あそこへけて置いたし、一かま分の木はもうそこにできている。こんやは新らしいポラーノの広場の開場式だ。」
「それではさあけのうまずにみずうを呑むぅとやるか。」その年よりが云いました。

215
みんなはどっとわらいました。
「よしやろう。表へ出て。おいミーロ、おれが水を汲んでくるから、きみは戸棚とだなからコップをだせ。」

216
ファゼーロはバケツをさげて外へ出て行きました。

217
みんなはアセチレン燈をもって工場の外の芝生に出ました。

218
みんなは草に円くなって座りました。

219
ミーロはみんなにコップをわたしました。

220
ファゼーロがバケツを重そうにさげて来て、
「さあコップを洗うんだぜ。」と云いながらみんなのコップにひしゃくで水をつぎました。私はその水のつめたいのにふるいあがるように思いました。みんなはこちこち指でコップをあらいました。
「さあまた洗うんだぜ。」ファゼーロが云ってまた水をつぎました。みんなは前の水を草にすててまた水でそそぎました。
「もう一ぺん洗うんだぜ。前の酒のにおいがついてるからな。」ファゼーロがまた水をつぎました。
「ファゼーロ、今夜一ばんコップを洗っているのかい。」

221
醋酸さくさんをつくっていたさっきの年った人が、云いました。みんなはまたどっと笑いました。
「こんどはむんだ。冷たいぞ。」ファゼーロはまたみんなにつぎました。コップはつめたく白くひかり風にはげしく波だちました。
「さあ呑むぞ。一二三、」みんなはぐっと呑みました。私も呑んでがたっとふるえました。
「では僕がうたうぞ。ポラーノの広場のうた。

222
  つめくさのはなの 終る夜は

223
  ポランの広場の 秋まつり

224
  ポランの広場の 秋のまつり

225
  水をのまずに酒を呑む

226
  そんなやつらが威張いばっていると

227
  ポランの広場の 夜が明けぬ

228
  ポランの広場も 朝にならぬ。」

229
みんなはパチパチ手を叩いてわらいました。その声もすぐ風がどうっと来てむかしのポラーノの広場の方へ持って行ってしまいました。
「おれもうたうぞ。」ミーロがたちました。

230
 「つめくさの花のしぼむ夜は

231
  ポランの広場の秋まつり

232
  ポランの広場の秋のまつり

233
  酒くせの悪い山猫やまねこ

234
  黄いろのシャツで遠くへげて

235
  ポランの広場は 朝になる、

236
  ポランの広場は 夜が明ける。」
「さあぼくも歌うぞ。〔以下原稿数行分空白〕

「さあ叫ぼう。あたらしいポラーノの広場のために。ばんざーい。」わたくしは帽子を高くふって叫びました。
「ばんざぁい。」

237
そして私たちはまっ黒な林を通りぬけてさっきのかしわ疎林そりんを通り古いポラーノの広場につきました。そこにはいつものはんのきが風にもまれるたびに青くひかっていました。わたくしどもの影はアセチレンのに黒く長くみだれる草の波のなかに落ちてまるでわたくしどもは一人づつおおきな川を行く汽船のような気がしました。

238
いつものところへ来てわたくしどもは別れました。そこにほんの小さなつめくさのあかりが一つまたともっていました。わたくしはそれを摘んでえりにはさみました。
「それではさよなら。また行きますよ。」ファゼーロは云いながらみんなといっしょに帽子をふりました。みんなも何か叫んだようでしたがそれはもう風にもって行かれてきこえませんでした。そしてわたくしもあるきみんなも向うへ行ってその青い風のなかのアセチレンの火と黒い影がだんだん小さくなったのです。

239
        

240
         ※

241
それからちょうど七年たったのです。ファゼーロたちの組合ははじめはなかなかうまく行かなかったのでしたが、それでもどうにか面白く続けることができたのでした。私はそれからも何べんも遊びに行ったり相談のあるたびに友だちにきいたりしてそれから三年の后にはとうとうファゼーロたちは立派な一つの産業組合をつくり、ハムと皮類と醋酸さくさんとオートミルはモリーオの市やセンダードの市はもちろん広くどこへも出るようになりました。そして私はその三年目仕事の都合でとうとうモリーオの市を去るようになり、わたくしはそれから大学の副手ふくしゆにもなりましたし農事試験場の技手もしました。そして昨日この友だちのないにぎやかなながらさんだトキーオの市のはげしい輪転器りんてんきの音のとなりの室でわたくしの受持ちになる五十行のらんになにかものめずらしい博物の出来事をうずめながら一通の郵便を受けとりました。

242
それは一つの厚い紙へってみんなで手に持って歌えるようにした楽譜がくふでした。それには歌がついていました。

243
ポラーノの広場のうた

244
  つめくさともす 夜のひろば

245
  むかしのラルゴを うたいかわし

246
  雲をもどよもし  夜風にわすれて

247
  とりいれまぢかに 年ようれぬ

248
  まさしきねがいに いさかうとも

249
  銀河のかなたに  ともにわらい

250
  なべてのなやみを たきぎともしつつ、

251
  はえある世界を  ともにつくらん

252
わたくしはそのはたしかにファゼーロがつくったのだとおもいました。

253
なぜならそこにはいつもファゼーロが野原で口笛くちぶえを吹いていたその調子がいっぱいにはいっていたからです。けれどもその歌をつくったのはミーロかロザーロかそれともたれかわたくしには見わけがつきませんでした。




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